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女ごっこ

 小説家になる、というのが幼い頃の僕、綿貫梓の夢だった。過去形になっているのは無論、今の自分がそうなってはいないからである。コンビニのアルバイトで稼いだ都内最低賃金をいくら本に注ぎ込もうとも、ノートにいくら文章を綴ろうとも、いずれは叶うだろうと一縷の希望を抱くほど現実はそう甘くない。お陰で僕の有り金はいつしか酒代に変わるようになっていた。小説家なんて天才か少しばかり運が良かった話題性の凡人にしかなれないのだと思う。そんなわけで、僕は将来の夢をサラリーマンに転換した。ね、素敵でしょ? 今やサラリーマンと名乗るものは社会人の約8割以上を占めているらしい。すなわち、それなりに就職活動をすれば、僕も近いうちに約8割の仲間入りというわけだ。

さて、なぜ急にこんな話をし始めたのか。なんてことはない。僕が目指していたはずの小説家、すなわちただの凡人である女が僕のベッドの上で寝転がっているからだ。彼女の名前は幸地芽依子。生き別れの家族でもなければ、彼女でもない。実家が隣同士の、ただの幼馴染だ。話は反れるが僕の彼女、いや、四年間付き合った元カノは野菜嫌いの僕に愛想を尽かして数か月前に出て行った。高校生からの付き合いで別々の大学に進学したものこれと言った大喧嘩はなく、むしろすんなりと同棲を始めるほどの仲だったから、破局するとなんて思ってもいなかった。きっと、同棲し始めた時点でこのまま続けるのは無理だと悟ったのだろう。何も言わずに遠ざかっていく彼女の背中がなかなかに忘れられない。文句の一つや二つ、垂れてくれても良かったのに。なんて、面倒なことを厚かましくも嘆いてしまうのは失恋した野郎の性であろうか。一人にしては少し広すぎる部屋の隅っこでおめおめと感傷に浸っていた時、この騒々しい女はやって来たのだった。

「なあに、じろじろ見て。虫唾が走るからやめてくれない?」

 うつ伏せになって枕の上に置いた本を楽しそうに読んでいた彼女が睨みつけてきた。去年の正月以来の再開だが、相変わらず愛想がない。

「悪かったね。早く母さんたちの家の方でも住み着いてくれないかと念じていたんだよ」

「それは無理よ。叔母さまたちのラブラブカップル生活の邪魔になるじゃない」

 当たり前のように言い捨てられ、返答に窮した。確かに、両親は一人息子を産み育てて二十一年目に突入するというのに、血縁の僕が恥ずかしくなってしまうほど睦まじい夫婦仲だ。同棲を始めることをあっさり許されたのもより二人だけの時間を過ごしたいという気持ちもあったに違いない。

「ほーんと、羨ましいわよね。パパなんて急に仕事で海外行っちゃうんだもん。いつ帰ってくるのかもわからないし。これだから仕事第一でママに逃げられた男は嫌よね。定期的に机の角に小指ぶつける呪いかけておいたわ」

 文句を言いながらベッドから起き上がる。丁寧にメイキングしたカバーがしわくちゃになって目眩がした。芽依子は絨毯に転がったクッションに座った。ローテーブルには先ほど僕が買ってきた炭酸水の五百ミリペットボトルが二本立ててある。

「わあ、さすがアズ兄。よく分かっているじゃない」

 にやりと微笑んで、当たり前のように蓋を捻った。ぷしゅっ、と鋭く空気の抜ける音がする。喉の渇きを潤す彼女を見ながら、持っていたカップを慎重に置いて真向いに腰を下ろした。

「それってさ、お酒とかを割るためのものなんじゃないの? 素で飲んで美味しいわけ?」

「あなたが飲んでいる緑色のそれよりはすっきりしていて良いよ」

 小さな唇を飲み口から離して微笑んだ。嫌味な女だ。僕はまだ湯気の出ている青汁に手を付けられなかった。

「てかさ、アズ兄。そろそろ美乃梨さんに振られた理由教えてくれたっていいじゃない」

 蓋を緩く締めた炭酸水を弄びながら、芽依子は頬杖を付いた。無数の気泡が底から湧き上がり、ペットボトルの腹の辺りで消えていく。不意打ちで出た元カノの名前に内蔵がきゅっと締め付けられた。

「嫌だよ。またネタにするんだろ」

 マグカップの取っ手を握り、一気に流し込む。嫌な苦みが口内に広がった。

「仕方ないじゃない。だってあと一週間で締め切りの原稿、何にも思い浮かばなくてまだ一文字も書いていないんだよ? 幼馴染のよしみだと思って少しくらい手助けしてくれても良くない?」

芽依子にとって僕の大失恋は仕方ないで済まされてしまうものらしい。
「絶対にごめんだね。第一、お前は僕の失敗を今まで散々ネタにしてきたじゃないか」

 あの時も、と付け加えるのは少し僻んでいるような感じがして喉元で止めた。芽衣子は大袈裟に頬を膨らませる。僕は首を振って、床暖房の効いた温かいフローリングから立ち上がった。少し座っていただけなのに、筋肉が固まって足腰が思うように動かない。よろめきながらキッチンまでたどり着くと、蛇口を捻って直に水道水を含んだ。冷たい液体が胃の中に落ちていく。脳みそが洗われていくようだった。僕はふと、二年前のあの時――芽依子が新人文学賞を獲って、最年少作家として一時期話題になったことを思い出していた。

ずるい、な。眩しいくらいのライトで照らされた壇上をぼんやりと眺める。真ん中には中学の黒いセーラー服を身に纏った彼女が誇らしそうに胸を張って立っていた。はきはきとした声がマイクを伝ってホールに反響し続ける。何を話していたがすっかり忘れてしまったが、スーツを周りの大人たちは称賛の目を向けて十四歳の少女を見ていた。なんなんだろう、この空気は。異質な光景に高校生の僕は背中を丸めることしかできなかった。生唾をゆっくり飲み込むと、腹の奥がやけに疼いた。
ここにいる全員は知っているのだろうか。芽依子の処女作『女ごっこ』が初めての恋人に盲目になる童貞の僕を主人公とした話だということを。

小説家は、僕の夢だった。なのに、幼馴染に先を越されてしまった。たまたま勝手に入った僕の部屋で書きかけの小説ノートを盗み見た芽依子に、だ。賞を取ったことを知らされて原稿を読ませてもらったが、内容こそ違ったものの文章の癖や構成は僕が作っていたものとどことなく似ていた。僕は小説を書くのを辞めた。というより、書きたくてもかけなかった。芽依子の満面の笑顔と、情けない傲慢さがちらついて。

もし、もしも。もしも、だけど。あの日、あの時、僕がつまらない人生をそれなりに楽しくしようと頑張っている少年をシニカルに描いていたら。あそこに立っていたのは、芽依子じゃなくて、僕だったんじゃないか。脚光を浴びるどうしょうもない妄想を、けれど幾度となく思い描いてしまう。

「ねえ、あなた話聞いてる?」

 耳の横で聞こえた声で我に返った。カップを取り落としそうになって慌ててシンクに置く。振り向くと、猫のようなアーモンド形の瞳と目が合った。

「な、なに?」

「だから、携帯鳴ってるって言ってるのよ」

 ややとがった口調で後ろを指差した。その言葉で僕は机の上で振動している媒体にようやく気が付いた。

「あ、ああ。ありがとう」

 生返事をしてのろのろと駆け寄った。芽依子はぶつくさ文句を言いながら付いてくる。大きな画面に表示された着信相手を見た時、息が止まりそうになった。考えるより先に指がボタンに触れる。

「もしもし?」

 一呼吸置いたつもりだったが、自然と上擦ってしまった。芽依子は再びクッションに戻って体育座りをする。

「あ、もしもし、梓くん? いきなり電話しちゃってごめんね。今大丈夫かな?」

 スマートフォン越しにはっきりと聞こえる美乃梨の声に涙が出そうになった。大丈夫、と顔は見えやしないのに大きく頷いた。電話越しに車の通る音が鼓膜に伝わる。外にいるらしい。目の前の小説家はようやく何かを書く気になったのか、透明な小瓶に入ったマニキュアを取り出した。芽依子は考え事をすると爪を噛んでしまう癖がある。人前に出るときに深爪だとあまりに恥ずかしいとのことで執筆をする前はそれを塗るようにしているらしい。

「あのさ、今更で申し訳ないんだけども私の荷物でまだ残っているものある?」

「え? うーん、ないと思うけど」

「ああ、そっか。それならいいんだけど、大事にしていたものが家になくて、もしかしたら梓くんの家にあるかもしれないから取りに行きたいんだけど、空いている日って」

 そこまで言いかけた時、美乃梨ーと知らない男の呼びかけが彼女を遮った。テンポ良く高鳴っていた心臓が押し潰されるように痛みを伴う。

「も、もしもし?」

 喉奥が震えた。返事はなかった。街の喧騒ばかりが煩く走っている。美乃梨、美乃梨……仕方のないものだと割り切りながらも、気の遠くなる感覚は拭えそうになかった。

「ねえ。ちょっと貸して」

 細い芽依子の腕がにゅっと目の前に伸びてきた。え、と思った時には既にスマホを奪われていた。

「美乃梨さん? 初めまして。私、アズ兄の幼馴染の幸地です。急にすみません。あの、言わせてもらいますけど、アズ兄に期待を持たせるようなことしないでくれます? てか、早々に男作って遊んでるなら、もう二度と電話しないでください。アズ兄、あなたのために野菜嫌い直そうと、必死に青汁飲んでるんですよ? まあ、ほとんど抹茶味しかしないので効果ないと思いますけどね! それじゃ」

 一息に捲し立てると、芽依子は勝手に電話を切った。僕は呆気に取られ、暫く固まっていた。鋭い眼光がこちらに飛んでくる。

「言っておくけどね、別にアズ兄がかわいそうとか一ミリも思ってないから。あたしの大事なネタ帳に傷を付けたくなかっただけだから」

 芽依子は苛立ちを抑えきれないように長く伸ばした髪を掻きむしった。しまいには、散歩してくると部屋を出て行った。

 

 芽依子がいなくなった後、彼女は折り返し連絡をしてきた。弟と買い物に出かけていたらしい。元彼氏の誤解など解く必要がないのに。律儀なところは変わってないなあ。やり直すことはないだろうが、高校時代のようにまた話せているのが素直に嬉しかった。喋りながら、登壇の時に彼女が発言していたワンフレーズをふと思い出す。「私は主人公のような馬鹿な男のために私は小説を書くんです」と。

ゆっくりと目を閉じた。あのノートはまだ実家にあるだろうか。帰ったら探してみようと決心をした。

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早稲田大学文化構想学部文芸ジャーナリズム論系です。趣味は読書、アニメ・映画鑑賞、漫画、音楽、ダンス、ショッピングなどです(^^) 初心者ですが、ゼミや授業で書いた課題小説をアップしたいと思います。Twitterも始めましたので、ぜひフォローしてください〜宜しくお願いします✩

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