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第14回 「町田市立博物館 東南アジア陶磁コレクション」を訪ねて/「江戸ガラスの振出」をつくる

 町田市立博物館は、2019年の「町田市立博物館最終展―工芸美術の名品」をもって現在閉館中です。今のところ新たな拠点に関する情報はありませんが、出張展示・出張講座などで活動を継続してくれています。後述の通り市民に愛され、良質な研究が行われてきた博物館ですので、ぜひ復活できるよう応援しています。

博物館の個性はどのように作られるか

 博物館の個性はどのように作られるのでしょうか。まず、コレクションが集まれば研究者が集まって研究が進むという側面があります。そして、研究が進めば「この博物館ならば」とコレクションを寄贈するコレクターがあらわれます。
 もちろん、コレクターも全方位で収集することはできませんし、研究者も全方位で研究することはできません。ですから、前述のサイクルが回るほどに、特定分野においてコレクション・研究の規模が拡大することになります。その結果「***といえば、***博物館」という個性が生まれてきます。

 しかしこのサイクルの端緒となる「コレクションが集まる」というのは、言うは易く行うは難いというほかありません。生々しい話ですが、某自治体博物館の学芸員さんに伺った話では、自治体の予算だけで十分な研究ができる質・量のコレクションを収集するのは多くの場合困難なのだそうです。そのため、ジャンルを狭く尖らせたり、未開拓のテーマを探求したりという工夫がなされます。それでも、資源は常に足りないというのが実状であろうと想像します。

 なので明確な個性が現れるほどコレクションを充実させた博物館の歴史には、何らかの信念で自分のコレクションを発展途上の博物館に託したコレクターや、限られた資源をもとにコレクターの心を動かすほどの研究を展開した研究者というのが、しばしば登場するものです。

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町田市立博物館の基本情報

 町田市立博物館は、「コレクションの寄贈と研究の展開」のサイクルがとてもうまく回った博物館です。

 博物館は1973年に民俗資料を収集・研究する郷土資料館としてスタートしました。しかし1976年には早々に方向転換、博物館と改称して大津絵などの民芸資料の収集をはじめます。1980年代からはさらに方向転換してガラス作品の収集にシフトしていきました。
 設立当初のコレクション形成は探り探りだった様子がうかがえますね。泥臭いトライアル・アンド・エラーは成長の常ですから、こういう時期を耐えるのは後の飛躍の必須条件なのだろうと思います。

 80年代はガラスに手応えを感じたようで、ボヘミアングラスを足掛かりにヴェネツィアングラスなど西洋ガラス作品を充実させます。一方、対となるようにアジアにも目を向けて清朝ガラスの収集にも手を伸ばしました。これに基づき研究は進み展覧会が開催されます。公式の博物館沿革には、「1988年『ボヘミアン・グラス 同時開催 中国乾隆帝ガラス』展にて15,284名の観覧者を記録」と誇らしげに記載されています。その後のガラスコレクションは、鼻煙壺コレクション、初版1612年「ラルテ・ヴェトラリア」(ヴェネツィアから流出したガラス技法書)などの寄贈を受けながら博物館の柱の一つとなっていきます。(「町田市立博物館最終展 解説冊子」、町田市立博物館、2019)

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 90年代にはさらに転機が訪れました。東南アジア陶磁567点の大コレクションが寄贈されるのです。寄贈の経緯は定かではありませんが、これを契機に、コレクションが研究を進めて研究が更なるコレクションの寄贈をもたらす、というサイクルが回りはじめました。その結果、現在では1500点以上の東洋陶磁コレクションが出来上がりました。ヴェトナム、タイ、クメール、ミャンマー、ラオスについて網羅的に語ることのできるコレクションです。茶人からの寄贈もあり、茶の湯の文脈から東南アジアをみられるのも面白いですね。本記事を作成するにあたり、東南アジア陶磁の資料を探してみたのですが、結局、町田市立博物館の過去の展覧会図録が一番参考になりました。博物館は見事「東南アジア陶磁といえば町田市立博物館」という個性を獲得するに至ったわけですね。

東南アジア陶磁の魅力

 正直に告白すると、私はこの博物館に出会うまで、東南アジア陶磁のことを軽く見ていました。もちろん日本の茶の湯で安南(ベトナム陶器)や宋胡録(タイ陶器)が珍重されていることは知っていました。しかし世界貿易の中での東南アジア陶磁は、中国・明の海禁令により陶磁器市場にできた空白を埋めるための代用品、意地悪く言えば中国陶磁の劣化版という位置づけだと思っていました。(「海禁令」とは、海賊行為の取り締まり等を目的として朝貢以外の私的貿易を制限する中国・明の政策です)

 しかし東南アジア陶磁というのは、そもそもひとくくりにできないほど各地域の個性が強く、中国陶磁器を基層としながらも各々に独自の美意識を追求した焼き物だったようです。もし日本人が、萩焼と有田焼を「日本陶磁」として一緒くたにされたら、ちょっと釈然としない気持ちになるでしょう。また美濃焼を「歪んでいて下手くそだ」と言われたら、「そういう面白さを追求したんだ」と言い返したくなりますよね。東南アジア陶磁も同様の状況なのだろうと思います。

各国の陶磁史概観

 それでは、めくるめく東南アジア陶磁の世界を概観してみましょう。意外と未踏の研究領域が残っているのもこの世界の魅力の一つです。この記事をきっかけに興味を持っていただけたなら、私としてもとても嬉しいです。

■クメール
 クメールは、現カンボジアを中心として9世紀から13世紀にかけて周辺に拡大し、一時は現タイや現ラオスあたりまでを版図に収めた帝国です。アンコール朝遺跡群が有名ですね。この王朝はインドシナ半島という海運の要所にありながら、基本的には内陸国家として貿易でなく内需で経済を支えた国です。
 陶磁器生産も中国の影響が比較的少ない独自性の強いの作風が特徴となります。まず目を引くのが形です。「大きく張った口(盤口)、細い首、なで肩で再び大きく膨らんだ腹、細く締まる足」という、量感があるのに引き締まった造形です。ここに灰釉の白と黒釉の黒が単色または掛け分けで施されます。輸出を行わなかったために、日本では伝世の茶陶はないのだそうですね。町田市発物館の資料では、寄贈者の茶人が独自の創意として茶道具に見立てている例が見られます。変わり種として、ウサギ型の壺というのもあります。

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■ミャンマー
 歴史好きにはバガン遺跡が有名な国ですね。バガンはクメールと同じころに現ミャンマーに栄えた王朝です。「王族による仏塔(パゴダ )の建立が実質的な公共事業として機能した」、「一般の有力者による仏塔建立が富の再分配を促した」など、宗教的な情熱が経済格差を解消していたという話をご存じの方も多いと思います。
 実はこの仏塔は、現代の陶磁器研究でも重要な役割を果たしています。ミャンマーでは白地に緑で文様が描かれた陶器が大量に出土していたのですが、この緑は東アジアでは類例のない錫鉛釉(ペルシャ陶器やマジョリカ陶器と同じ成分だそうです)で、本当にミャンマーのものとしてよいのか議論になっていました。そこでバガンの仏塔のタイルを調査したところ、同成分の釉薬が検出されたために産地がミャンマーに特定されることになりました。(「アジアを慈しむ 木内宗久コレクション寄贈記念」、町田市立博物館、2008)
 絵付けは極端におおらかな一方、形は意外と厳しいつくりで、ふしぎなアンバランスさが魅力ですね。現在は残念ながら政情不安から研究が難しくなってしまっていますが、釉薬の入手経路など個人的にはとても興味があります。

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■タイ
 タイの発展はクメールの衰退から始まります。陶磁器生産で特に重要なのは14世紀から16世紀にかけてです。この時期の政治の状況は、中部のアユタヤ王朝、その北のスコータイ王朝、更に北のラーンナー・タイ王朝が、外部と結びついたり対立したりしながら盛衰する複雑怪奇なもので、とても私にはまとめきれませんでした。「タイ族の沸騰」と呼ばれるそうですね。ただ陶磁器との関係でいえば、窯があるのはスコータイ、ラーンナー・タイの支配地域で、インドシナ半島外との貿易はアユタヤが担っていたと考えてよいと思います。
 タイ北部の窯元は、谷ごとに一窯一流の様相で、スコータイ窯、シーサッチャナーライ窯などのメジャーどころのほかにも、小さな窯跡が無数に見つかっています。宋胡録(すんころく)の語源となった「サンカローク窯」もコレとコレですと指し示すのが難しく、そんなものは定義できないとする立場もあります。
 当然、作風も多種多様ですが、総じてアユタヤ経由での輸出を意識しているだろうというのは共通見解のようですね。シーサッチャナーライ窯の青磁鉄絵などは、15世紀には中国青磁とは違った方向性の美しい作風を完成させています。日本で大うけした、白釉に褐色の鉄絵で加飾した「宋胡録」も見ることができますよ。タイの鉄絵はお魚が美味しそうですよね。

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■ヴェトナム
 ヴェトナムは、インドシナ半島の国々の中でも特に、中国と密接に関わりながら歴史を歩んできた国です。10世紀から17世紀あたりまで陶磁器生産を続け、14世紀後半あたりからは輸出を意識した陶磁器生産をはじめています。先ほどの「中国・明の海禁令で生じた市場の空白を埋めた」というイメージは、ヴェトナムのこの動きから生まれたものですね。輸出陶磁に関連して、16、17世紀には朱印船貿易で日本との関係が深くなります。なので、日本で「安南」といえばこのころのヴェトナム青花が多いですね。変わり種としては「あえてほとんど加飾していない安南」というのもあります。茶の湯の世界ではこちらのほうが価値が高いそうですね。(「ヴェトナム陶磁の二千年 舛田コレクション」、町田市立博物館、2013)

 ごくざっくりと王朝ごとの施釉陶磁の特徴をみれば以下のようになるでしょうか。
・李朝(1009-1225)
 中国から独立した直後。いわゆる「大越国」。シャープな薄手の白磁。
・陳朝(1225-1400)
 なんとモンゴル・元を退けている。白磁、青磁、緑釉、黒釉、褐色釉、白釉、中国で流行ったことをどんどん取り入れてバリエーションが急増。
・黎朝(1428-1527、1532-1789)
 成立年を見てもわかる通り、政治的には戦乱と混乱の渦中にあった時期。陶磁器はやはり、明・景徳鎮の流行りを取り入れて青花、五彩を作る。

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 ヴェトナム陶磁は、記号的に技法の種類を見れば、中国をなぞっているように見えるかもしれません。しかし実物を見れば、技術導入の際の独自解釈こそがヴェトナム陶磁の魅力だと気付いていただけると思います。劣化版なんてとんでもない。同一技法の中国版とヴェトナム版を並べて見るような展覧会があったら見に行ってみたいですね。

 余談ですが、ヴェトナムといえばホイアン沖で引き上げられた難破船から16世紀の青花が大量に見つかったことがありました。おそらく貿易船の積み荷でしょう。しかし引き上げ当時ヴェトナムは途上国で、引き上げの混乱の中、まるで土産物のような扱いで引上げ品が市場に大量流出してしまいました。この経緯で流出したホイアン引き上げ品を、現在でも時々、市場で見かけます(もちろん私には真贋はわかりません)。

これがほしくなった

 2019年の「町田市立博物館最終展」では、先着入場者2000名に、東京都伝統工芸品・江戸硝子の一輪挿しがプレゼントされました。江戸硝子とは、明治期に品川硝子製造所で導入された西洋式硝子製造技術で生産された硝子製品のことです。幸運にも私はこれをいただくことができました。プレゼントの一輪挿しは、押し型で作られており、色ガラスの斑紋をちらした可愛らしいものでした。

 花を活けるには少し小さかったので、菅蓋を作りつけて振出にしました。振出(ふりだし)とは、茶箱手前につかう菓子器で豆菓子などを入れます。

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 菅蓋の作成は、こちらのブログを参照させていただきました。ただし、芯材については、桐ではなく、その辺にあったサイズの合うコルク栓を使っています。

 ふだんは金平糖を入れて、「小腹がすいたとき用」にデスクにおいています。余談ですが、この用途には「振出」という器種がぴったりですね。私はお茶を習っている訳ではないのですが、この用途だけのためにいくつも振出を揃えてしまいました。

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 今回は、東南アジア陶磁にフォーカスした紹介になりましたが、町田市立博物館には他にも魅力的なコレクションがたくさんあります。ぜひまた新たな展覧会でいろんなコレクションを訪ねたいですね。

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