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第12回 旧白洲邸「武相荘」を訪ねて/「夫婦茶碗」を繕う

終の棲家をつくろう(予算無制限で)

 みなさんは、終の棲家について考えたことがありますか。私は今住んでいる安普請が気に入っており、ここが終の棲家になればいいなと思って暮らしています。しかしそんな私でも、もし青天井の予算で思い切り凝った家を誂えたらどうなるだろうと夢想することは時々あります。この凡夫の夢を実際に叶えたご夫婦がいます。白洲次郎(1902-1985)、白洲正子(1910-1998)夫妻です。

 白洲次郎は、戦前からイギリス・ケンブリッジ大学への留学を足がかりに人脈を築き、戦後の日本と国際社会との折衝において大きな役割をはたした人物です。日本語よりも英語を堪能に話し、サンフランシスコ平和条約の立役者、吉田茂の片腕として語られることも多いですね。GHQが白洲次郎を評した「従順ならざる唯一の日本人」という言説が有名です。白洲次郎に対する私の個人的な印象を表現するなら「表舞台に出たジェームス=ボンド」という感じです。

 一方、白洲正子は、薩摩の名家にルーツを持ち、能の素養を土台にして豊かな見識を養い、文筆家として名を立てた人物です。さらに銀座の骨董店「こうげい」の経営者として、日本各地の民芸作家が世に出るきっかけを作りました。自身で数寄者とは名乗りませんでしたが、己の美意識を世に問うて、小林秀雄、青山次郎、柳宗悦、北大路魯山人などの幅広い業界の名士と交誼を結ぶ姿は「現代数寄者」という印象です(ご本人はこんな呼ばれ方をしたら怒ると思いますが)。彼女の生き方には、現在でも多くのファンがいらっしゃいますね。

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 写真は、Oily boy(「自動車偏愛者」を意味する英俗語)として有名だった白洲次郎の最初の愛車の同型車です。次郎は生涯を通じて幾多の車を乗り継ぎましたが、最初の車は17歳の時に父から買い与えられた「1916年型 ペイジ Six-38」でした。

 上記の経歴をみて薄々お察しのことと思いますが、白洲夫妻の経済状況は、私のような卑小の者には及びもつかないリッチな状態にあったと思われます。白洲正子の本を読むと、謙遜からか「この骨董を購入したいが懐具合が云々」とか「世界恐慌のあおりで次郎の実家が傾いて云々」という記載を時々見かけます。まあ事実ではあるんでしょうが、「イヤ、庶民の暮らしははもっとずっとつつましいですよ」と本に向かって叫びたくなりますね。本人の修辞的な言をのぞけば、暮らし向きの陰りはあまり読み取れないように思います。大金持ちが時世で小金持ちに転落したけどすぐ持ち直した、というあたりが実態ではないでしょうか。

 こんな夫妻が戦時中、疎開のために多摩の田舎(現在の町田市鶴川)に居を構えます。正子の言によれば、次郎が空襲を怖がったそうですね。
 さて、一般人では望みえない資金を投入して、白洲夫妻はどんなおうちに住んだと思いますか。

建築からみる「武相荘」

 これがそのおうちです。

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 どうでしょうか、こんな質素でいいのかな、というのが私の率直な感想です。
 疎開にあたり、夫妻は某農家が手放した住宅を譲り受けました。そして、ちょこちょこと増改築しながら、戦後もここを拠点に生活しつづけます。二人はここを「武相荘(ぶあいそう)」と名づけ、結局ここが夫妻の終の棲家となりました。「武相荘」という銘は、「武蔵国と相模国の境界の家」と「世情に媚びぬ不愛想な二人の家」のダブルミーニングでしょうね。会心のネーミングだと思います。

 それにしても、思いっきり「ザ・多摩の農家」という家ですよね。今でこそ、茅葺農家の文化的価値が認められ、茅葺き技術の継承に力が注がれていますが、当時この形式の家はありふれたものでした。というより、田舎の家はみんなこのような形でした。今の感覚でいえば、郊外にいくらでもある建売住宅の一つという感じでしょうか。それでも、この家のプロポーションにはどこか心惹かれるものがありますね。凡百の品物たちの中から、全てが噛み合った「これだ」という一つを選び出し、手を入れて美しい生活を作り上げる。まさに数寄者の発想だと思います。

 農家としてのこの家の基本思想は「農業を基本としつつ、急勾配屋根から生まれる広い小屋裏で養蚕を行い現金収入を得る」というものです。この点では下記の記事でご紹介した、白川郷「旧矢箆原家住宅」と共通しています。
 しかし、矢箆原家が庄屋階級の家であるのに対して、武相荘は完全に庶民の家です。矢箆原家で見られた貴人を迎える車寄せなどもちろんありません。(よほど武相荘のほうが、政治・経済・文化の各界から貴人を招いているんですけどね……。)

 邸内は、写真撮影が禁止されているため、文章でご容赦いただくしかないのですが、柱や梁は庶民の家としては良質なものを使っています。
 とはいえ、天井裏への階段から小屋裏の構造を覗き見ると、梁は一木ではなく継ぎ足していることが確認できます。柱の仕上げも、ものによりまちまちで、総じて素朴なものです。白洲夫妻の財力ならもっと高級ラインの物件を狙うことは難しくなかったでしょうから、「あえて」の選択なのでしょうね。たしかに、肩ひじ張らない材が、ゆるいくつろいだ雰囲気を演出しています。

 間取りは典型的な「田の字」です。屋根の下の1/3を土間、残りの2/3に床を張り、田の字に四分割して4部屋を作っています。この空間を夫妻は以下のように使いました。

 ・土間は、タイルを張ってソファとローテーブルを置き「洋のリビング兼次郎の応接室」としました。靴履きに慣れ、カントリージェントルマンを志向していた次郎らしいリノベーションですね。
 ・縁側側・土間側の部屋は、「囲炉裏のある茶の間」です。和のリビングで、正子がたびたび著作の中で自慢している「囲炉裏の炉縁」を現在でも見られます。
 ・縁側側・奥側の部屋は、「飾り棚・床の間つきの部屋」です。農家の住宅では最も格式の高い空間といっていいでしょう。常ならば仏壇があるところですが次郎の遺書は「葬式無用・戒名不要」ですからね。もちろん仏壇などありませんでした。
 ・裏側・土間側の部屋は、用途を確認できませんでした。汎用だったのかもしれません。
 ・裏側・奥側の部屋は、「正子の書斎」です。ある意味、この部屋がこの家の本丸です。元は隠居室だそうですね。出入り口、押し入れ、明り取りの窓以外の全ての壁に本棚を作り付けるリノベーションが施されました。窓の手前には座卓の高さの書き物机が設けられており、机の下の床を掘り込んで椅子座の姿勢で書けるように工夫されていました。

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 立地は鶴川の近所の小高い丘の山裾で、裏手は切り立った山、表側に小さな庭があります。写真の右手側に山、左手側に庭があり、その先はなだらかに下っています。これも典型的な多摩の農家の土地選定ですね。私見ですが、多摩丘陵にあって「労なく水は得たいが、川の氾濫は避けたい」というリクエストと「労なく農地にアクセスしたい」というリクエストの両立を目指すと小高い丘の山裾に落ち着くのではないかと思います。

生活からみる「武相荘」

 現在、武相荘は、白洲夫妻のコレクションを紹介する(というより生前に二人が用いた品々を通じて二人のライフスタイルを紹介する)ミュージアムとなっています。

 さきほど武相荘の本丸と表現した「正子の書斎」ですが、展示されている本は実際に正子の蔵書だそうです。読書家の蔵書を見るというのは、本好きには代えがたい楽しみですよね。
 ラインナップは、古色蒼然とした文豪の本棚という感じではなく、現代人の私でも見覚えのある本がちらほらありました。考えてみれば1998年まで生きていた人ですからね。私が印象に残ったのは、中央公論「日本の歴史」シリーズの一揃いです。古本屋の100円コーナーの常連ですね(失礼)。今でもそれだけ読まれている本です。白洲正子は、吉田茂を「吉田のおじさま」呼ばわりしたりして歴史上の人物のような印象が強いですが、現代人が普通に読む本を読んでいたというのは親しみがわきますね。

 本棚には、同じ中央公論の「日本の名著」シリーズもあったのですが、一揃いではなく「聖徳太子」と「世阿弥」のみしかありませんでした。正子の蔵書形成が、「とりあえずコンプリート」ではなく、明確な思想・嗜好のもとに行われていたことが伺えて好感が持てましたね。

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 「囲炉裏の茶の間」には、夫妻が使っていた船箪笥や食器など、生活用品が展示されています。
 その一つとして、「古伊万里の色絵四段重」が桐の共箱とともに展示されていましたが、その箱書きをみて私は笑ってしましました。なんと蓋裏の「極め書き」が墨で塗りつぶされ、以下のように書き直されていたのです。次郎のやったことだそうですね。骨董好きの方はご存じかと思いますが、極め書きは品物の由緒を保証するもので、時に市場価値を大きく左右します。

古伊万里
退漏 祖父の祖父
持ていたとの話
■■(墨塗)■■
■■(墨塗)■■
S二十四年 六月十五日
甲東園 寺より
つる川武相にてとどく

 「世間的な評価なぞ興味はない、私はいいと思うことをいいと思うようにやる」という態度は正子の十八番だと思っていましたが、次郎も然り、似たもの夫婦だったようですね。(文中「退漏」の意味はちょっと分かりません。私の読解間違いかもしれません。)

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 白洲夫妻の関係について、邸内のパネルにご息女の牧山圭子さんの言葉が紹介されていました。「次郎と雅子は、てんでバラバラに外を飛び回っており趣味(hobby)においては全く異なっていた。しかし、最終的には二人とも武相荘に帰ってきて嗜好(taste)においては一致していた」という旨の内容です。
 ありきたりな感想で恐縮ですが、我が家もそうありたいものだなあと思いました。

 余談ですが、白洲夫妻のエピソードについて資料をみると、一つのエピソードについて、次郎の発言と、正子の発言と、牧山圭子さんの発言が微妙にずれていることがあります。夫妻それぞれがちょっとずつカッコつけて記載がずれてしまったのかもしれませんね。学者の方にとっては困ったことかもしれませんが、私は「白洲夫妻らしいなあ」と思ってちょっと笑ってしまいます。

これがほしくなった

 正子の交友関係の一人に北大路魯山人(1883-1959)がいます。現在の美術市場において魯山人の作品は、物故作家の作というより、骨董品のように扱われています。しかし正子にとって魯山人は現代作家でした(とはいえ、いいお値段がつく「当代一の作家」ではありましたが)。あまねく器は実用に供してこそというポリシーをもつ白洲雅子ですから、現代作家、魯山人の器など容赦なく日々の暮らしの中で使い倒しました。そして実用に供せばふとした折に手を滑らせて割れてしまうのが器というものです。

 けれど割れた器を金継することで器に景色が生まれるのは、日本人ならだれでも知っていますよね。
 私が武相荘を訪ねたときも、割れて金継された魯山人の食器が展示されていました。揃いものの向付の一つが金継されていましたが、洗い物の時にでも落っことしたのかもしれませんね。

 私のうちにも洗い物で落っことした器があります。ごはん用の夫婦茶碗です。重ねた状態で落としたため、仲良く同じところが欠けました。
 市場価値としては魯山人に遠く及ばない茶碗ですが、新婚のころに妻が出張先の京都で買ってきてくれたもので、わたしとしては、とても簡単に捨てられるものではありませんでした。

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 欠損部分は紛失していたため、セメダインの「エポキシパテ 木部用」で作り直しています。硬化後に彫刻刀で削ったりやすりをかけたりできるのがいいですね。名前の通り、木と同じように扱えますよ。
 「金」継ぎにしてもよかったのですが、我が家では、冷凍ご飯をレンジで解凍することがあるので、「金」は避けました。火花が散って大惨事になりますからね。この器では朱漆をかけています。華やかな景色になったと妻も気に入ってくれました。レンジを使う可能性がある食器を継ぐときの仕上げとしてお勧めです。

 さて、どんなものにも値段が付く資本主義市場の世の中で、この器は手をかけるより買いなおしたほうが「得な」凡百の器かもしれません。けれども凡百の中に「これだ」を見出すのが数寄というものです。私の「これだ」にいい値段が付けばそれはそれでうれしいですが、そうでなくてもそれを理由に私の生活を翳らせるのはつまらないと思うのです。もしみなさまの数寄がみつかったら、ぜひ大事にしてあげてください。白洲夫妻の豊かさの本質はそのあたりの数寄に拠っているのではないかと私は思っています。


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