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ひいおばあちゃんのお話。

私は曽祖母を4人、知っている。

知っている、と言う表現はおかしいかな。
曽祖父は2人、会ったことがある。
まあ、人間誰しも曽祖父母は4人は必要な訳で。
4人全員、ひいおばあちゃんと会ってる人はそんなにいないんじゃないかと先日、言われたので思い出を脳味噌か引っ張り出しながら、
明治生まれの『ひいおばあちゃん』のことを。
今日は母方の曽祖母の回想。

まず、母方の祖母のお母さん。
(言い方が複雑だなー)
(簡単な言い方ないかな)
この方はほとんど記憶にないけど、母方の親戚の集まりの時に座敷の奥に居らした。
そして最後の記憶は、お葬式。
2歳か3歳の頃らしいけど、祭壇に献花をする時は白い菊の花の茎が祭壇側、お花を自分の方に向けるんだよ、と教わった。
『なんでお花を見せてあげないんだろう。私の方にお花向けたらひいばあちゃんお花が見えないのに』
って思った記憶がある。その記憶は驚くほど鮮明にある。相当、不思議に思ったんだろうな。
そして一日中、久しぶりに履いたスカートの心地悪さの方が気になっていた。
まだ幼かったから人が死ぬと言うことを理解していなかったと思う。無理もないな。
このひいおばあちゃんの子供たちは皆、明るくて面白い方達だったから、遊びに行くのが楽しみだった。がははと良く笑うおじちゃん達や、女同士でゲラゲラ笑い合っているおばちゃん達。
ひいばあちゃんの事はあまり覚えてないけど、その子供達と接すると人柄が分かる気がする。


母方の祖父のお母さん、の曽祖母はとても綺麗な人で身長が高かった。背筋がピンとしてて上品、白髪をいつもきれいにうなじの上で結って、着物の帯から下には前掛をかけていた。祖父はよく、
「誰もばーさんに似なかったな。残念じゃのー」
と、冗談めかして言っていた。
立派な門があり、トトロが住んだそうな大きな栗の木が庭にあり、礼儀作法に厳しい家だった。
元気よく玄関先で挨拶をして一礼すると、とても嬉しそうに「元気でいいわ」と拍手してくれた。
座敷では先ず、正座で手をついて「こんにちは」
子供でもジュースは出てこなくて、すこしぬるめの緑茶を頂く。怖くはなくて優しい笑顔だけど、
母が子供の頃は、もっと厳しかったから家に行くのが嫌だったそうだ。曽孫にはさすがに甘いのかな。礼儀作法には厳しいけど、会う時はいつも笑顔で、整った顔が更に綺麗。
いつもお菓子が入っている茶筒があって、その中には餡子玉やピーナッツ入りのお煎餅、岩おこし、黒砂糖、松風など昔ながらの物が入ってた。
みんなで談笑してると、ひいおばあちゃんが「おいで」と台所に呼んでくれる。お茶室の水屋のようなこじんまりとした、そして整った台所。
お鍋の中の筑前煮を小皿に取って
「お味はどうかしら」
爪楊枝と一緒に渡してくれる。長い指が優しく、私の芋虫みたいな不細工な手を包む。
「凄く美味しい!」
「良かった。それじゃ、皆さんにお出ししましょう。持って行ってくれる?」
皆が、待ってました!と言う表情になるのが嬉しかった。私が作ったんじゃないけど、指名されて運んだの、私だもん!
お料理がとても上手で、特に思い出深い物は、お砂糖と醤油で甘辛くコトコトと煮た昆布の甘露煮。似たような物が売ってたりするけど、全然敵わない。
少食で親を困らせていた私でも、ぺろりとごはん一膳…おかわりもする美味しさ。
何日も掛けてガスコンロと七輪で水分を調節しながら炊いていくんだよ、と叔母は言っていたが
残念ながら、この味を引き継いだ人は誰もいない。
帰り際には、その昆布の甘露煮を小瓶に詰めて持たせてくれた。
「またおいで。楽しかったわ。ありがとう」
両手を拝むように合わせて指先が口の辺りにある仕草はとても印象深くあり、嬉しい時なんかによく見ていた気がする。

ここの家は俗に言う「いい家柄」であり、初期の頃から選挙権があったそうな。お正月の御作法も独特な儀式があった。
代々、教育にも力を入れていたんだろう。ひいおばあちゃんの子供や孫たちは、〇〇長とか〇〇委員会とか〇〇の会員とかで威圧感がすごくて。話せば良い方達なんだけど何と言うか…オーラ?
身なりもキッチリしていてダブルの背広が良く似合うようなおじ様やお着物を粋に着こなすおば様方が多かった。
ひいおばあちゃんの子育てはどんなふうだったんだろう。


思い出してみるのも楽しい。



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