見出し画像

04_金髪の魔女は、今日もビールを飲んでいる。

↓ 前話はこちら




「ユースケ!!」

お父さんの声がして、僕はぼんやりと目を覚ました。
「あ、お父さん。おかえりなさい」
ベッドの横には、帰ってきたばかりのスーツを着たままのお父さんが立っていた。僕は寝ぼけ眼を擦る。

「お帰りなさいじゃないやろ。ばーちゃんに聞いた。お前なあ。何しとるとや! 人に手をあげるなんて、弱いヤツがやることやないか!」
僕ははっと我に帰った。寝ぼけている場合じゃなかった。やばい。お父さんがめちゃくちゃ怒ってる。げぇ、最悪。お父さんの顔を確認したい。どのくらい怒っているかのバロメータの眉間の皺。そろりとお父さんの顔を見た。皺マックス。お父さんの眉間には般若みたいな皺がくっきりと刻まれている。
お父さんのその形相を見て、僕はベッドから勢いよく飛び起きた。

「明日から、すみれに来てもらって一緒に生活する練習をするところやったのに! ユースケ、お前がこんなやったら、すみれには来てもらえんな。お腹の赤ちゃんにもよくないけんな。ユースケもお兄ちゃんになるんやけん、ちゃんとせないかんやろ! 5年生にもなって、いつまで経っても保育園の頃と変わっとらんやないか。赤ちゃんやないかお前は! なんか言うことないんか!」

言うことなんかない。お父さんに謝る必要はない。僕はちゃんと木下には謝った。お父さんの出る幕はない。僕はお父さんの前に直立して、目を伏せた。

部屋の空気が緊張でビリビリと震えているのがわかる。震えているのが、空気なのか僕の心臓なのかはわからない。水を打ったように静かな空間なのに、僕の耳には心臓の音が聞こえてきた。たかだが数秒が何十分にも感じた。この空気に耐えられず、僕はちらりとお父さんに目を向けると、そこにはまだ般若がいた。

「ごめんなさい」

意図せず僕の口から謝罪の言葉がこぼれた。しかもおざなりの。超面消し程度の“ごめんなさい“がお父さんの怒りに火を注いだのがわかった。
「なんやその謝り方は! 全然反省しとらんやないか! 頭冷やしてこい!」
お父さんは僕を睨みつけてから首根っこを掴むと、僕を部屋から追い出した。僕は階段を転げるように降りて、玄関を飛び出した。もう外は真っ暗だった。

僕は下唇を噛んだ。くそう。僕ばっかりが怒られて絶対おかしい。

そう思いながらも、怪我をさせた自分にも非があることぐらい僕にだってわかってる。どうにもならない想いを抱えたまま、家にも入れなくなった僕は、仕方なしに玄関の隅に腰を下ろした。

風が冷たい。夜になると流石にハーフパンツでいるのは寒い。ぶるっと体が震えて、全身に鳥肌がたった。つぶつぶと粟立った皮膚が気持ち悪い。僕は小さく体操座りをして、風があたる面積を最小限にすることしかできなかった。 

一人で外にいると、余計なことばかり考えてしまう。そもそも、最近僕がイライラしているのは、お父さんのせいでもある。だからあんな些細なことで木下の頭をこづいたに違いない。諸悪の根源はお父さんじゃないのか、と僕はそんなことを考えた。

お母さんが病気で死んでからというもの、お父さんは仕事仕事で僕のことなんてあんまり構ってくれない。お母さんが死んでからは、お父さん一人じゃ僕の面倒を見れないからと言って、ばあちゃんちに住むようになった。それからずっと、僕の世話はばあちゃんに任せきりだ。

たまに早く帰ってきたって「勉強はちゃんとやってるか」だとか、「友達とは仲良くしてるか」だとか、僕にはあまり関心がない気がする。どちらかといえば、僕がちゃんと小学生をやっているかが気になっているんだと思う。

たまに遊んでくれるって言っても、最近はいつも、いつの間にかできた彼女のすみれさんと一緒だったし。僕はお父さんと二人で、キャッチボールするだけでもよかったんだ。とはいえ僕も、キャッチボールをしたいなんて言ったことはなかったけど。そういえばちっちゃい頃に「キャッチボールをしたい」って言ったら、「忙しいからまた今度な」って言われたんだっけ。だから忙しいお父さんに迷惑をかけちゃいけないからって遊びたいって言わなくなったんだった。

まあ正直、僕も、大きくなったら、お父さんと遊ぶより友達と遊んだほうが楽しいわけで。

今年の夏、急にお父さんが「すみれと結婚する」なんて言い出した。寝耳に水で僕は本当にびっくりした。もしかするとそんなこともあるかもしれないと思ってはいたけど、正直、すみれさんとは結婚しないだろうと思ってもいたから。

びっくりしたのは、それだけじゃなかった。どうも僕は、お兄ちゃんになるらしい。たまに夕飯時にお父さんはニコニコして「楽しみだな」なんて言ってるけど、別に僕は楽しみなんかじゃない。

お母さんを欲しいと言ったことはない。弟か妹か知らないけど、きようだいが欲しいなんてことを思ったこともない。
別にすみれさんのことは嫌いなんかじゃないけど、なんだか全部がお父さんにばっかり都合がいいような気がして、僕はわけもなくずっとイライラしてしまう。

僕がイライラしてると「ユースケは反抗期やな」なんてことをお父さんは言う。お父さんは自分の都合が悪いことを、全部反抗期のせいにする。お父さんが僕のことをイライラさせてるだなんて、微塵も思っていない。それはやっぱり、僕のことなんて全く興味がないからだろうし、それにきっと、死んだお母さんのことだって大して興味がないに違いない。

それだったら、お父さんは僕のことはほっといて、勝手にすみれさんと家族を作ればいいんだ。僕はばあちゃんと二人でこの家に住めばいい。それはあんまり今の生活と変わらないし、僕だってその方が気が楽だ。

別に新しいお母さんなんて、今更いらない。

玄関の隅で一人寂しさを感じる僕の体を、12月の冷たい夜の風が撫ぜていく。体が芯から冷えていって、この世界で僕はひとりぼっちなんじゃないかっていう気持ちになった。

寂しくて悲しいのに、涙は不思議と出なかった。
「男は人前で泣くんじゃない」
人前じゃないのに、呪いの言葉が僕の涙を堰き止めた。本当は目から出てくるはずの涙が、どんどん体の中に溜まっていく。コップに水が溜まっていくみたいに、ドボドボと体の中が涙でいっぱいになる。

やばい。溺れる。

僕は、ふぅと息を吐いた。


泣くな。泣くな。泣くな。

呪いの言葉なんかか捨ててしまえ。カビ臭い教えだろ。木下が言うことなんて関係ないけど、アップデートした方がいいっていうのは同意だ。古臭い考えなんて捨てた方がいい。お父さんに何て言われてもいいじゃないか。お父さんなんか関係ない。あんなわからずや。でも、でも、泣いたらまたお父さんにまで馬鹿にされる。そんな悔しいこと絶対に嫌だ。

泣くな。泣くな。絶対に泣くな。

悲しくなんかない。僕は強くなるんだ。一人だって大丈夫なんだ。
僕は涙がこぼれないように目をぎゅっとつぶって、下唇を上の歯でぎゅっと噛んだ。胸が苦しい。うまく息ができない。

その時、ガチャっとドアが開いた。僕は驚いて、ひゅっと息を飲み込んだ。やばい。お父さんかもしれない。お父さんに泣きそうなことがバレるのは、それだけは、絶対に嫌だ。

僕はパーカーのフードをすっぽりかぶる。その場でさらに小さくなって顔を隠した。すると、後ろから優しい声がした。

「ユースケ、大丈夫ね?」

ばあちゃんだ。僕はそのまま顔を隠し続けた。
するとばあちゃんが「ほら」と言って、水色のポーチを差し出した。ばあちゃんの声はもちろん聞こえてたけど、僕は知らんぷりをした。

「ここに置いとくけんね」

ばあちゃんはそっと僕の横に水色のポーチを置くと、家の中に戻っていった。海の匂いのするばあちゃんのポーチ。そのポーチはいつも、仏壇に置いてある。ポーチの中は海の匂いがするけど、ポーチの外側は少しだけ線香の匂いがする。

僕はチラリとポーチに目をやった。ガチャリと玄関のドアが閉まる音。僕は少しだけ顔を上げて、ばあちゃんが玄関のドアを閉めたのを確認する。そして、水色のポーチを手に取った。

すぅっと線香の匂いを嗅ぐ。落ち着く匂いだ。

ファスナーをじじじと開けると、ポーチの中から海の匂いが広がって、ブワッと顔の周りに纏わりついた。口から大きな息を吐くと、僕はポーチに顔を押し当てた。すうっと息を吸うと、体の中に懐かしい海の匂いが広がって、まぶたの裏側にお母さんの笑顔が見えた気がした。

僕は、ポーチに入っている巻き貝は袋に入れたまま、そのままファスナーに顔を突っ伏して泣いた。泣き始めると全てがどうでもよくなった。誰に聞かれたっていい。悲しいもんは仕方ない。

僕は大きな声を出して、わんわん泣いた。

泣いても泣いても、涙は止まらなかった。土砂降りの雨にみたいに目から落ちてきた。あまりにも涙が出るもんだから、体じゅうの水分がなくなるんじゃないかと心配になって、僕は涙を止めるためにぎゅっと目をつぶった。

もうお母さんの笑顔はまぶたの裏にはなかった。まぶたの裏に木下のお母さんの冷たい目と、さっきのお父さんの怒った目が現れて、そして綺麗に重なった。

みんなの目が僕を見つめる。僕が悪いと目で訴えてくる。

何でだよ。なんで僕が悪いんだよ。僕ばっかり悪いわけがないじゃないか。木下だって悪いし、お父さんだって悪いのに。手を出した僕だって悪いかもしれないけど、元を辿れば僕だけが悪いわけじゃないのに……。

泣いても泣いても涙は収まらないし、苛立ちも収まらない。僕は思わず苛立ちをぶつけるようにばあちゃんのポーチを投げつけていた。


ーーガツン。


無機質な音が頭に響く。顔を上げると、ばあちゃんのポーチが玄関の門の前に落ちていた。あ、やばい、やばい、やばい。
止まらなかったはずの涙が、潮が引くみたいに、すうっと引いていくのがわかった。

僕は慌てて飛び上がる。飛び上がった瞬間、前につんのめりになりながら、玄関の門に駆け寄った。玄関の門の前に、音もなく死んだように落ちているばあちゃんのポーチを一瞥した。

ポーチなんてもともとただの袋なのに、なんで死んだみたいなんて思ったんだろう。僕はその時、初めて気づいた。ポーチに命があるみたいに感じていたってことに。

ばあちゃんがよく物にも魂が宿ると言っていて、なんでも大事にしなさいと言われて育ったからかもしれない。

僕は肩を落とした。ぽつんと声もなく落ちているポーチを、ゆっくりと手で持ち上げた。ポーチは僕の涙でびしゃびしゃだった。僕は恐る恐るポーチの中を覗く。なんだか胸騒ぎがした。嫌な予感がする。できればそんな予感は当たってほしくない。

そんな期待も虚しく、嫌な予想は当たっていた。

残念なことにポーチに入っていた巻き貝はぐしゃぐしゃに割れていた。そしてよく見ると割れた巻き貝の破片がばあちゃんのポーチに刺さっていた。ところどころポーチが破れて穴が開いている。

僕は大きな大きなため息をついた。十二月の夜の冷たい空気に僕のため息は白く染められて、ふわふわとあたりを彷徨っていた。
どうしようもない喪失感に苛まれながら、僕は両手でばあちゃんのポーチをギュッと握る。

ーーそのポーチはばあちゃんの宝物なんだよ。ばあちゃんを支えてくれた大事なポーチやけん。

いつ聞いたかもわからないばあちゃんの声が頭の中で優しく呟いた。




↓ 次話はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?