そもそも自分軸って何だろう?
自分軸を育て直すと決めてから約2ヶ月半経って、そもそも自分軸/他人軸って何だろう?という疑問が出てきました。
私の見解では、
自分軸=他人に合わせず、自分の考えや気持ちで行動すること
他人軸=他人に合わせて行動すること
でも実際には、他人に合わせることもあって、それに苦しさを感じないこともあります。
そんなことが多々あって、ふと
それは本当に他人軸なのか?
そもそも自分軸って何だろう?
と疑問に思いました。
そして、考えてみると、一見他人軸っぽいことが、実は自分軸なこともあるなと気づきました。
例えば、友達と3人で食事に行った時。
私以外の2人はイタリアンがいい、私は和食がいいという場面で、私は2人に合わせてイタリアンにしました。
自分の気持ちを優先するのなら、いかに和食がいいかプレゼンしたり、今回は食事に行かないという選択をすることもできます。
しかし、私はそうはしませんでした。
私にとって、食事内容よりも友達と会って話すことの方が大切だからです。
食事内容という面で見ると、私は他人に合わせているので他人軸となります。
しかし、食事に行く目的という面で見ると、私は「会って話したい」という自分の気持ちに従って行動しているので、自分軸になります。
今回の私は、食事に行く目的の方が大切で、イタリアンを選ぶことに納得しているので、食事内容を他人に合わせても「嫌だ」とか「苦しい」などとは思いませんでした。
だから、他人に合わせてイタリアンを選ぶことも自分軸になっているのです。
結局、自分軸とは、
自分が納得する行動
納得した理由の主語が「私」になっていること
だと私は思います。
他人に合わせることに納得していれば、それは自分が自分の気持ちや考えで選んだものなので、自分軸になります。
私が特に大切だと思うのは、納得した理由の主語が「私」になっていることです。
「『私が』食事内容よりも、食事に行く目的の方が大切だったから、イタリアンを選んだ」
「『他の人たちが』イタリアンがいいと言ったから、イタリアンを選んだ」
この2つは、「イタリアンを選ぶ」という同じ行動をしていますが、納得感が違います。
前者は、私が選んだんだから、気持ちよくイタリアンに行けます。
後者は、他の人たちのせいにしていて、本当は納得したくないけど渋々了承した感じがします。
そのイタリアンが美味しくなかったら、文句を言いそうです。
自分が納得して、さらに納得した理由の主語が「私」になっていれば、たとえ他人に合わせたとしても、ちゃんと自分軸になっていると言えます。
「他人に合わせるか、合わせないか」だけで考えていたので、ややこしくなっていました。
どの面から見るかで、他人に合わせる/合わせないが変わるので、より自分が納得する行動を取ることと、主語を「私」にして納得しているかで考えた方が、私にとってはわかりやすいなと思います。
もちろん、主語が「私」になっていても、もっと突き詰めると実は他人が主語になっている場合もあるので注意は必要ですが、それも色々な経験をして見つかるものだと思います。
ひとまず、
自分が納得する行動
納得した理由の主語が「私」になっていること
を自分軸として育てていこうと思います。
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