夏空_いわし撮影

Vertigo

 曇り空の下、暗い海を哨戒していると、時々どちらが空でどちらが海だかわからなくなることがある。
 本物の鳥は空間識失調《バーティゴ》に入ることはあるのだろうか。以前ライブラリに侵入して調べてみたことがあるけれど、調べ方が悪いのか答えを見つけることはできなかった。
『ソラ、ズレてるぞ』
 不機嫌そうな男の声が、通信機越しにソラの耳に届く。同時に修正信号が送られてきて、小型飛空艇《バード》と同調しているソラの感覚が計器と同期させられる。
「ありがとう、ルーク」
 ルークは当然だと言いたげに鼻を鳴らして、そのまま沈黙した。
『確かに少し暗いな。視界レベルを上げた方がいいか』
 通信機を通して少しくぐもった低く穏やかな声はレクスのものだ。
『まだいいだろ』
 ルークが簡潔に答えて、また沈黙が舞い降りる。弦楽器の通奏低音のような、不思議な響きのエンジン音だけが聞こえる。暗い宵闇の中で、見えるのは前を行くレクスの翼端灯と編隊灯だけだ。
 静かだった。まるで、海の底にいるように。
「なにか音楽が聞きたい」
『またそれか』
 呆れ返ったようなルークの声に、ソラは小さく微笑む。
「そう、また、それ」
『少しくらい構わないだろう。ルーク、ラジオを』
『任務中だってのにお前らは本当に緊張感がねえな』
 ぼやきながらも、ルークは律儀にラジオのスイッチを入れてくれる。ラジオはすぐに、どこかもの悲しいギターの旋律を流し始めた。木漏れ日が散るような前奏の後で、女性ボーカルがそっと声を乗せてくる。

   効かないクーラーに見切りをつけて
   公園の芝生に寝そべった
   あの頃僕らはそうして
   夢ばかり話した 覚えてる?

 ギターと二人きりで語り合うように、やわらかくささやく声。
「カナリアの声だ」
『ああ……そうだな』
 同意を返したのは、レクスだった。

   変わっていく雲のかたち
   映していた君の瞳
   雨上がりの空気
   透明な 透明な空の色

   思い出したとき夢は
   もう一度 僕のものになるだろうか

 僕、という単語を歌うとき、カナリアの声はなぜか少しだけ、何かを懐かしむようににじむ。その色あいとさっきのレクスの答え方が似ている気がして、ソラは小首を傾げた。
「レクスは、この歌、好きなの?」
『どうだろう。わからない。ルークは?』
『なんで俺に聞く』
 突然話を振られたルークは、不機嫌そうに舌打ちした。
『興味がある』
『音楽のことなんて俺にはわからねえよ』

   雨上がりの空に帽子を投げて
   虹を探してはしゃいだ
   フェンスの向こうの僕らは
   この痛みを知らない 今でも

 悲しい曲調ではないのに、歌っているカナリアが泣くのを堪えているような気がして、ソラは星の見えない夜空を見上げた。ソラの知らない感情を、カナリアの歌は教えてくれる。だから好きだ。任務中にその感傷がもたらす涙は、邪魔になってしまうけれど。
 この歌は、誰かのための歌なのだろう。ふいにそんな確信が胸をよぎる。

   変わり続ける雲のかたち
   映していた君の瞳
   アスファルトの熱
   透明な 透明な空の色

 彼女はきっと、求めている。何かを――誰かを。
 顔も知らないカナリアの、その想いが向かう先を考える。

   思い出したとき夢が
   もう一度僕のものになればいいのに

 カナリアの歌に引き寄せられるように、暗い暗い夜空の中で、ソラはあの日見た青空を思う。
「私はこの歌、好きだな」
『まあ、悪い歌じゃねえよな』
 ソラの小さなつぶやきに、ルークがたぶん彼なりの同意なのだろう言葉を返した。

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