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忘れ去った孤独、思い出した孤独。

私だって、普通に生活してたら「カノジョに会いたいなぁ」なんていう衝動に駆られる日もあるのだ。そんな日は決まって、沢山散歩して、沢山本を読む。

今この時代に生まれてきたから、正直、簡単に2人になれる。会わなくても2人になれるし、「会わない?」って声をかけるハードルも、随分低い。

のだけど、そういえば、伊丹十三がこんなことを言っていた。

ホームシックというものがある。これは一時、人生から降りている状態である。今の、この生活は、仮の生活である、という気持ち。日本に帰ったときこそ、本当の生活が始まるのだ、という気持ちである。勇気を奮い起こさねばならないのは、この時である。人生から降りてはいけないのだ。成程言葉が不自由であるかも知れぬ。孤独であるかも知れぬ。しかし、それを仮の生活だと言い逃れてはいけない。それが、現実であると受け止めた時に、外国生活は、初めて意味を持って来る、と思われるのです。

と。

私が常々思っていたことの全てに、この、『ヨーロッパ退屈日記』の伊丹十三で、合点がいったのだ。

「そうかそうか、この寂しさを伴う孤独が、僕のが人生なのだな。」と。

忘れていたのだね、周りのヒト、モノコトの輝きに埋もれていた本来そこにある孤独と言うものを、見失っていたのだね。

けれども不意に思い出す孤独に、私達は小賢しいので、蓋をして、見ようとしなかった、忘れ去りたかったのだね。

「外国生活」をしているわけでもないし、実家暮らしで7人家族なのに、それでも私は、ちっと寂しさを伴う孤独を感じる。大変に恵まれた環境で過ごしていても、孤独と言うものが、どこからかやってくるのだから、これはもう、実はずっと一緒にいるものなのだろう。

1人が寂しくて、自信も無くて、何だか共感してくれそうなヒトにワンコール入れて、気を紛らわせたって、「私の生活」は一向に進まんのだ。

「あぁ、1人だなぁ。」なんていう時が、実は本質的な自分との向き合い方で、痛くて辛い孤独から逃げては、いかんのだろう。

巷では、孤独は愛すべきもんらしいが、辛くない孤独は本当に孤独か?

しんどいからこそ孤独であって、孤独であるが故に、「私」というものを押し上げられるんじゃないか。

私なんかは、そんな風に、孤独とワイワイやっている。

一見、静かに本読んだり、フラフラ散歩しているだけなのだけど、存外、内なるは、激しくやっているのだ。

孤独というのは、こういうもので、それでいいのだと、思う。

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