後のパン屋のひとりごと。
授業が無い月曜日に大学に行って、程よく日のあたるベンチか何かで読書なんかをしていると、学生らのワイワイが嫌でも目に入ってくる。
ワイワイが嫌ではないからわざわざ用の無い大学に行って読書しているのだが、そんな一見無意味なことにも私なりの意味がある。
この時期だとなんだか「入りたて」感のある人たちが多くて、「あぁ、なつかしいな」なんて感じるのと同時に、リクルートスーツで歩き回る人たちもいて、「あぁ、そうだよね。」と当たり前のことをいやに感心する時がある。そしてそれがいいのだ。
私が大学4年生になって「あ、じゃーもう就活だね」何て言われるたびに「いや、就活してなくて、」「え?じゃーどうするの?」なんて聞かれたなら、「パンの修行に行ってきます」なんて潔く言うもんだから「今は何してるの?」って困ってしまうような質問が矢継ぎ早に返って来る。
そんな時は正直に「書生してます」と訳わからんことを言ってやると「??」となって会話が終わってゆくのだ。
就活しないことが私にとってはもう何年もスタンダードなのだけど、案外、世間はそうではないらしく、開口一番「あ、じゃーもう就活だね」は、さすがにひどいではないかと稀に嫌になる。「バナナと言ったら黄色」みたいなリズムで型を用意されても困るのだ。
入国したいので「ショウミーユアパスポート」に応じるように、大学4年生となったら「就活だね」「あ、はいそうなんですよー」と言わねば「大人」にはなれんということなのか。
そうなってくるといよいよ困ってしまって「就活もしないでフラフラフラフラと」と風当たりも強くなってしまうだ。
私はなんだかそういうのが嫌だ。
のほほんとしていて鈍感だから私はナントかパン屋の修行までこぎつけたのだが、優しくていいヤツほど敏感で「就活だね。」に流されざるを得ない人もまま多いと思うのだ。
そういう「大人社会風」の当たり前は、アマゾン川の濁流と同じなのだ。
細かい砂の粒子が川を成し、ひとたび川に身を投げようものなら清流としたものとは物質的圧力が比にならないほど重い。
「流されてしまう」と本能が悟る。それとおんなじだ。
まあ、アマゾン川に身投げしたこともなければ、「就活だね」「あ、そうなんですよー」といたことも無いから分からないのだけど。
もうちょっと融通が利く世の中になってほしい。
とは言っても世間のスタンダードがそうであるなら、私もわずかながらに「当事者の様子」を知りたい。
用も無いのに大学に行って本を読んで過ごすのは、現実と私を分断させないよう無意識のうちに繋ぎとめる行為なんじゃないかと思う。
本当は、「ただ本を読むより、女の子がいるところで読んだほうがいいではないか。」と思うからかもしれない。
なんて書くとカノジョは心配するのだけど、わざわざ女の子がいそうなところで本を読むのは坂本龍一の話で、私は大学と言う空間で何か大事なものを失くした気がするから、ただ探しに行っているのだ。
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