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気前のいいお姉さん
サービスは、提供する側と、受け取る側で必ずしも一致するとは限らないと思う。
運ばれてくる料理は「まぁ、普通かな。」くらいのもので、特段良いお酒がおいてあるわけでもないのだけど、なにかあると行ってしまう飲み屋さんが近所にある。
そんな良く行く飲み屋さんで働くお姉さんは、私のことを「まーにー」って呼ぶ。
だからなのだろう。気がつけば、料理もお酒も平均的なお店に私が通っているのは。
お姉さんは多分、毎回日本酒を少し多めに入れてくれていると思う。
それはそれで嬉しいのだけど、私とっては、そんなことより、今では友達も言わなくなった「まーにー」って呼んでくれる人がいることの方が大切なのだ。
「1人で飲みに行って、お姉さんに「まーにー」って呼ばれてるなんて知らなかった。」なんて彼女は涙目になって何か言い寄ってきそうだ。
追記しておかねばならないことがあるとするなら、そのお姉さんは、世間的に見たらおばさんなのだと思う、ということだ。なんせ、妹の友達のお母さんだから。
自分のお母さんとあまり歳の変わらないおばさんをお姉さんと呼ぶことは、明日、何着て生きていくか考えることと同様に、私の自由である。
料理が並だから、決まっていつもマグロのブツを食べながら日本酒を飲む私だ。歳を食っているのは、私のほうかもしれない。
冷静に考えたら、おばさんに「まーにー」なんて赤ちゃん用紙オムツみたいな呼ばれで喜んでいるのは、変かもしれない。けれども、そういう、安心感のあるコミュニケーションは存外、日々の営みに彩を添える。
私たちがコミュニケーションをとるのではなくて、コミュニケーションをとるから私たちなのだ。
文化人類学的観点で、マリノフスキーが研究したニューギニア島東部のトロブリアンド諸島の「クラ」という交換文化がある。
簡潔に言うと、意味の無い物々交換を行うことで部族間の平和を維持するものだ。
作為的に行われる物々交換を介した継続的なコミュニケーションの輪の「クラ」で大事なことは、「気前のよさ」であり、その気前の良さが「クラ」を継続することに直結する。
「クラ」、つまり、継続的なコミュニケーション。
自然発生するコミュニケーションは、そう多くない。「知ろう」として始めるのがコミュニケーションであり、コミュニケーションをするから私たちは私たちでいられるのだと思う。
コミュニケーションは単に「きく」「はなす」だけで完結するものではないはずだ。
空気を愛して、はじめてコミュニケーションになる。
果つること無きコミュニケーションの輪の循環の中でこそ、サービスを超えた気前の良さと心地よさが同居するんだろうなぁ。
#エッセイ #コミュニケーション #クラ #随筆 #サービス #人付き合い
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