「私、ズレてるな」と思い続けて20年
小学生のころから、「なんか、ズレてるな、私」と、ずっと思ってきました。
人間ですから、ひとりひとり違うということは、分かります。
でも、それにしたって、私はズレていて、それが、辛かった。
友達の会話についていけなかった、いじめられもした、そんなこともあったけれど一方で、皮肉を言われても皮肉と理解できない鈍感さに助けられたこともあった。
そして、今日も私は、ズレています。
人の輪の中に入ることをついに諦め、子供の頃から大好きだった「ひとりの時間」を満喫する毎日。
「ズレている」
受け止められなかった頃は辛かったけれど、受け止めてしまえば、なんてことない。
だってそれは、私の持って生まれた、「宝石」だったと、気付いたからです。
「ズレ」というコンプレックス
子供の頃はこの「ズレ」を強烈なコンプレックスだと思っていたので、必死で隠し、誤魔化すように生きてきました。
親の前でも、兄弟の前でも、友達の前でも、どこに居て、誰と居ても、ずっと仮面を被っているようだった。
空を見ることが、好きでした。
特に夕方の空をじいっと見るのが好きで、今でも図書館からの帰り道など、橋の上に立って、ひとりでぼーっと夕焼けや川の流れを眺めます。
「物にも命がある」と思っているので、例えばテーブルにぶつかったら「あ、ごめん!」なんて謝るし、洗濯機で洗濯を終えたら「今日もお疲れ様~」と労います。
植物にも動物にも、普通に話しかけます。
コンプレックスを別の角度から見たら、「宝石」だと知った
今も、「ズレてるなあ」と思います。
子供の頃、実家に居た時は、ずっと隠していたけれど。
今は「そんな私でよかったな」と、思えます。
私が「ズレ」と感じていたものは、ある角度から見たら「ズレ」であり、「人の輪の中に、集団の中に入ることを難しくする障害」です。
でも、また別の角度から見たら、光り輝く感性という「宝石」だった。
空を見て美しいと感じれば、「宝石」が磨かれます。
植物や物に話しかけたり、直感のままに行動するとまた、「宝石」が磨かれます。
私の「宝石」は、そうやって今日も、磨かれている。
ただの「ズレ」じゃない。
私だけの「宝石」だと、気付いたから。
「sarari」は、「宝石」の輝き
「sarari」は、私の持つ「宝石」の輝きを集めてつくっています。
私がやりたいこと。
私が表現したいこと。
私が感じたこと。
それらすべてを集めて、詰め込んで、磨き上げて、作っている世界。
それが「sarari」です。
「私の持つ宝石(感性、世界観)が好きな人が、この世界に絶対に居る」
私の持つ「宝石」に共鳴してくれる人がひとりでも居てくれたのなら。
そして「sarari」という輝きをひとつでも届け出来たら嬉しいなと、思います。
▷ 作品購入:Creema / minne
▷ 委託販売:Thingslyみなとみらい店 / Thingsly池袋PARCO店
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