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臥すときの用心

 今年のお彼岸は雪が降ったり、強い寒風が吹いたり、「暑さ寒さも彼岸まで」とは言いずらい1週間でした。寒の戻りが長引いて体調をくずされている方も多いようです。
 私もそのひとり。お彼岸中日の夕方、そろそろ墓地の扉をしめて1日を終えようとしたころ、背中に強い寒気が。ストーブにあたっても強まる悪寒。嫌な予感とともに体温を計ってみると38度。喉の痛みもなく、咳も出ず、鼻水もなし。ただただ高熱が出るという状況でした。
 翌日病院へ行って検査をしてみると、コロナもインフルエンザも陰性。先生曰く「疲れでしょう。この寒さもありますからよく休んでください。」とのこと。なるほど、疲れ、ですね、確かに。

突っ走る

 昨年から、寺子屋さらんオープンに向けて本気で準備をはじめ、オープン後も運営に邁進し、普段のお寺の仕事と並行して全力で突っ走ってきました。うすうす「休んでないな~」「このままじゃ体にきそうだな~」と思ってはいましたが「止まれない」状態でした。漕ぎ出した船は止まらない!そしてこの高熱へ。

用心(心得)

 高熱が出ては、さすがに動けず、やっと「止まることができ」ました。3日ゆっくり寝て今は元気になりました。曹洞宗の僧、大智禅師が参禅指導に当たって示された『十二時法語』には、24時間の生活における細かな用心(心得)が書かれています。朝起きるときの用心、お粥を食べるときの用心など、その心得(ただそれに集中すること)が書かれています。その中に「暇なときには暇の用心がある」とあります。そうです、無駄な時間は1秒もありません。暇なときは脇目もふらず本気で暇を過ごす。病に臥す時には病の時に集中して過ごす。それを思いながら3日間ただひたすら寝ました。

茶に逢うては茶を喫し、飯に逢おうては飯を喫す

 これは「お茶をいただいたならそのお茶を飲み、ご飯をいただいたならそのご飯を食べる」といった意味の瑩山禅師の有名な禅語です。お茶を出されて「ジュースのほうがよかった」と言うのではなく、ご飯を出されて「麺がよかった」と言うのでもなく、出されたものをそのまま素直に、ただいただくというシンプルな禅語です。当たり前すぎて逆に難しい気もしますが(笑)、病に臥すと、つい「あの時仕事はほどほどにして休んでおけばよかった」「休んでいる場合じゃないのにな」「早く治らないかな」などと病の時を素直に受け取ることができなくなりがちです。突っ走るときは突っ走ることに集中して突っ走り、病に逢うてはただ病を喫す。ただその時その時を集中して生きること、それでいい、それがいいのです。

わたし(≠自我)が病のときを生きているだけ

 体調を崩している時、療養中の時は「病=わたし」と、病気と自分を同一視してしまいがちです。私も難病の闘病中の頃はそうでした。「わたしが病」なのだと錯覚し、自分を責めました。が、実は「わたしが病のを生きているだけ」です。ただ、そういう時を生きているだけ。わたしが病んでいるのではなく、わたしが病の時を生きている。言葉で違いを表すのは簡単ではありませんが、今回寝込んだ3日間はそういう思いでありがたく「臥す時」を「臥すこと」に集中して過ごし、とても清々しい心持ちです。
*この辺の「わたし(≠自我)」のお話はまた後日改めて詳しく記したいと思います。

感謝

 そして何より、私の3日間の療養をサポートしてくれた住職と、たまたま帰省していた娘に心より感謝しています。食事の用意をしてもらいとても助かりました。また、療養期間中に開催予定だった音楽健幸講座を、参加予約をしてくださっていた皆さんにご連絡し、別日に延期させていただき助かりました。元気回復し、きっと楽しいいい講座ができると思います!

 最近、これまで学んできた禅語や茶道などを実生活に活かせるようになってきて、生きるのが楽になってきました。これからも、寺子屋の講座やnoteでの記事で、その実験結果をみなさんと共有していけたらと思います。

 今日で今年の春のお彼岸が終わりました。いよいよ春のはじまりです。漕ぎ出した船を波にまかせて、穏やかに、自然に、そのまま、いつのときも大切に過ごしていきたいものです。

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