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今に夢中

わたしは今、言葉にならない、しきれないものを、心に携えている。

お母さんclassレッスン2をオンライン受講。メルヘンについて學ぶ。オモシロイ。町田康さんの「こぶとりじいさん」創作現代語訳朗読を就寝前など、繰り返し聴いている。

キャラクター設定、情景や背景が丁寧に、躍動しながら面白可笑しく紡がれていく。その言葉選びが真に秀逸。
「こんな瘤がある俺が踊り狂うのを世間が赦すわけがない。と思うまでもなく、思っていて」って、これ、潜在意識のことかな、とか。
没我入神し、踊り狂るこぶとりじいさんの場面は、「やったな!爺さん!」心で拍手!その爽快感たるや、もう。
鬼、瘤はコンプレックスや劣等感、罪悪感や思い込み、固定観念、概念、操作、執着に当たったりするのか?。瘤が二つになった爺さんが大半だったりして‥。踊り狂うって、湧き上がり、発動状態?。そもそも、鬼もふたりの爺さんも、人間の中にあるものちゃうやろか‥。ステージによって、みえ方、感じ方が変わる。面白みが深い。

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏をLIVEで聴いて、「楽器も、演奏する人も、その音楽に聴き入る人々も、みんな使ってもらっているな」と、感じたことがあった。
安心のなか、余計な力入ることなく、風通し良く、心身が解放される。
それは、人としての尊厳があるからこそ。

「学校、会社に行きたくないから、休む」、「化粧ノリが悪いから、外に出るのはやめにするわ」‥。人には、自由意志がある。それをするのか、しないのかの決定権は、その人にある。いかなる人、誰しもに、対等にある。

しかし、ボイコット、放棄する権利をも、そもそも与えない、奪う行為。強制的服従、命令。それは、人が人の尊厳を奪う行為だと、わたしは思う。そんなこと、あってはならんことを、わざわざ組み込むとは。その仕組み、システム自体が、そもそも、そもそもなんやで。と。

心は馳せるし、感じることは、いろいろある。
いよいよティラミスやフォカッチャをレシピ通り作ってみるかとか、料理一つとってみても、あれこれ試行錯誤すること、みずからかかわることで、きづくこと、感じることがある。

好きそうな喫茶をみつけて行ってみた。サンドイッチの胡瓜シャキシャキとパンのふわふわの歯応えのコントラストマジ黄金比神。ほっとする。シュークリームも「これこれ!これを待ってた!」の味。

大須商店街も練り歩いた。洋服だけ見ても、様々なジャンルのものがある。エビフライサンドが美味しい喫茶の路面店もある。活氣がある。レコードやCDの置いている店もあって店員さんからは、「音楽のこと、何でも聴いてよ。」の前のめりオーラがだだ漏れ状態。嬉しくなった。最近はダウンロード、動画、Spotifyで聴くことが多かったから。

着回しできる白のガウンをゲットした。海、山、川、土、どのシーンでもガシガシ使えて洗える。エプロンにも、庭仕事にも、ナイトウェアにもなる。コーディネートを色々試しながら遊びたい。

ずっと行ってみたかったアンティークのお店にも伺った。オンラインで拝見していた。(カートに入れてみては、「でもな‥」を幾度となく繰り返し慎重に慎重を重ね過ぎていて、タイミングをすっかり見失っていた。)けれども、実際にそのものに触れた瞬間、そんなものはあっけなく外れてしまった。生地の丈夫かつしなやかな感触、その人の身体のサイズに合ったラインの余韻(即興RAPです)。手で何度も継ぎ接ぎ繕われた跡、仕立てやギャザーの美しさ‥。何百年もの時を経て、今ここで出会えたことに、込み上げるものがあった。移転されるとのことで、出会いの感謝と、新天地でお互いに健やかに日々、暮らせますようにと交わした。

投影からのきづき。身体からの切り替え。

身体のてあて、日々絶賛体感中。巡る心地よさ、きもちよさ。わたしの輪郭、弾力。身近な人にもできるといいな。台座灸は、まだこれからのおたのしみ。

植物のことも、まだまだ知りたい。葱も5度目の収穫。オリーヴやレモンを迎えたい。

森の暮らしはまるまる二ヶ月空くこととなった。水のフィット感や感触。静けさはもう、すでにあるのでは案件。四季折々の景色の移ろい、山歩き、雪や薪ストーブ、山菜の醍醐味。今、今、今。毎瞬間きづくことがある。

日々のなにげない暮らし、わたしは今、ここに生きている。いつでも足元にある。

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