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『偽る人』(揺れる) (第27話)

闘う(1)

 房子は少しずつ衰えてきていた。

普段の気の強さを目にしていると、房子の歳を忘れてしまう。

 けれど、たまにスーパーの買い物に付き合ってみると、カートを押したり、椅子に腰かけたり立ったりする姿が、以前よりよぼよぼして、頼りなく見える。そういう姿を見ると、この先長くはないだろう房子を思って、たまらない気持ちになった。

 

 房子がそういう弱い年寄りのままでいたなら、恭子は喜んで世話をすることができただろう。恭子のために涙を流してくれた日のように、心をつないでくれていたら、幸せだっただろう。

 けれど、房子はやっぱり、自己愛が強く、我が強く、冷たい本性を出していく。そして恭子も、一度決壊した我慢という堰(せき)は、以前より崩れやすくなっていた。

 房子に本気で怒る、ということをしてしまってから、その壁は簡単に超えやすくなった。房子の嘘や不誠実さを見るにつけ、怒ってしまう。そうすると、房子はとたんに弱い老人になり、しぼんでいく。その姿を見て、恭子も後悔して、優しくしてあげようと思う。恭子の心は、毎日大きく揺れていた。

 

 房子は、房子に日頃よくしてくれている卓雄とさえトラブルを起こした。

 忙しさの中でも恭子がなんとかパソコンのワードに打ち込んでいた日記を読んでいくと、卓雄に関する記述もよくある。

『〇月〇日

 いつも昼近くに起きる母が、何故か八時に起きてきた。

 卓雄が、

「おかあさん、今日は早いですね」

と言ったら、

「遅いと言われたから」

と憮然として母が言った。その前日だったか、遅く起きてきた母が、

「八時には目が覚めたんだけど、まだ早いと思って、また寝て・・・」

と言った時に、卓雄が、

「おかあさん、八時にはみんな起きていますよ」

と笑いながら言ったことを言うのだ。

 どうも、勝気でおとなげない・・。』

 また別の日。恭子が外出して、卓雄に房子を数時間託したことがあった。イタリアからの留学生の女性の夕飯も卓雄が引き受けてくれていた。

『〇月〇日

 母が急に叔父(悠一)の所に行きたいと言って、卓雄が車で送りに行ってくれた。』

 その日のことは、よく覚えている。

 卓雄は房子がすぐ帰ると思っていたのに、悠一の家に着くと、房子は期限が迫っている商品券を使いたいので、デパートに行く、と言ったという。

 夕飯を作らなくてはいけない卓雄は、明日なら送っていけますよ、と言ったけれど、房子は聞かず、ひとりで行く、と言い張ったと言う。

 仕方なく、悠一がデパートに付き合った。

  

 帰ってきた房子に、

「用が足せてよかったですね」と卓雄が言って、恭子がうなずくと、房子は、

「おかげで散財した」

と、不機嫌な顔で言った。付き添ったお礼に、悠一に、デパートで高価な漬物をたくさん買って持たせたことを言うのだ。悠一にしたら、そんな物を買ってもらうより、ゆっくり家に居たかっただろうに。房子にはそれが分からない。卓雄も房子がわがままだ、と言った。

 その夜だった。

 房子はテレビのことで卓雄ともめた。

二階の房子の部屋にもテレビはあるけれど、小さい。房子が一階の大画面テレビでNHKの大河ドラマを観るために階下に下りてきた。その時、卓雄は世界陸上の女子マラソンで日本選手が銀メダルをとった場面を観ようとしていた。

 十時になって、チャンネルを替えると、政見放送をやっていた。大河ドラマは十五分延期になっていた。

 ソファーに座ってテレビを観始めた房子に、

「十五分からですって。替えるね」

 と言って元のチャンネルに戻すと、房子がそのままNHKが観たいというので、また戻した。すると、台所から卓雄が来て、有無を言わさず、また世界陸上に替えた。

 何故か卓雄は大胆だった。こんなことは初めてだったので、恭子はびっくりした。

 すると、房子が、

「マラソンなんて、また再放送が何度でもあるじゃない。じゃ、二階に行って観てくる。あぁ、つまらない。」

と捨て台詞を残して、二階に上がって行くのだ。これにもまたびっくりした。

「また降りてこなくちゃならないじゃない。ここに居たら?」

と言っても聞かなかった。

 たった十五分のために、辛い階段の上り下りをするなんて。それも、大しておもしろいとも思えない番組。明らかに嫌がらせ。子供みたいだった。

もともと、そのテレビは最初から卓雄が観ていたものだ。それに、今日は悠一の所に連れていってもらって、お世話になったというのに。

房子と卓雄がこんなふうに争うのを、初めて目にして、当惑した。

「おかあさんわがままね」

恭子がそう言うと、卓雄は「うん」と言った。けれど、卓雄が言う房子のわがままは、別のことだった。

「おじさんがせっかく行ってくれているのに、デパートで散財したなんて」

卓雄が房子のことを非難がましく言うのは珍しかった。

夜、布団に入ってから、またその話をすると、卓雄は、

「わがままできるって、いいじゃない。」

と言った。

「おかあさんは、実家に行って、ほっとするんだよ。それでわがままになるんだよ、きっと」

 実家は、自分がずっと住んでいた所だから、と卓雄は言う。テレビの一件には触れず、やさしかった。

 その言葉で、恭子の気持ちも少し落ち着いた。房子の気持ちになって、優しくなれるような気もした。

 けれど、一方で、少し寂しかった。実家に行ってほっとする、ということは、恭子の家では遠慮して、気を使っているということだ。

わがままいっぱいに見えるけれど、そうではなかったというのだろうか。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

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