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『偽る人』(揺れる) (第67話)

我慢できない(1)

「認知症って、検査で分かるんですってね。

脳神経外科に行ってこようかしら」

朝食を食べながら、房子が突然言った。

「どうして?」

「私、ぼけたんじゃないかと思って・・・」

「病院に行って、治るの?」

 言いながら、だんだん面倒臭くなった。

 房子が、自分がぼけたと思っているのなら、それでも良かった。思っていないから、いろいろ違ったことを言い張ったり、言ったのに言ってないとか、強硬に言ったりする。

 そして、外では、立派で頭が良くて、上品で、若くて元気なふりをする。

 それでも、本当にぼけたと思っているといえるのだろうか。

 房子はきっと、その朝のことを正当化しようとして言っているのだ。

 その日、房子は予定が何もない日だった。

昼になっても起きてこないので、様子を見に行くと、服を着たまま寝ていた。

 朝起きて着替えたのだと房子は言う。そうだとしても、それからまた、十二時過ぎまでも寝るものだろうか。

 目覚めた時の房子は、入れ歯が乾いて、またもにゃもにゃと、何を言っているのか分からない。

「恭子が四時過ぎ?起こしてくれたので・・」

とか、訳の分からないことを言っていた。夢でも見たのだろう。

「認知症」だなんて、言ってみているだけだろう。むしろ、そんなことを言ってみるほど、頭がしっかりしていることをアピールしている。房子らしい、と思った。

 房子の体は確実に衰えていっている。けれど、気持ちの強さが衰えることはない。相変わらずの房子の我の強さ、冷たさに、恭子は傷つき、ストレスをためた。

 ある日のこと、房子の片腕の内側に紫色のあざができているのを見つけた。だいぶ暑くなってきたので、寒がりの房子も半袖を着るようになっていた。

「どうしたの?」

と訊くと、房子は、恭子につかまれた時のものだと言う。その「つかまれた時」という言い方に恭子は邪気を感じた。

訊いてみると、階段を上る時に、恭子が腕の下から支えた時のものだった。房子が痛いというので、ひじを支えたり、そのつどいろいろ変えて、手伝っていた。

階段を上る時に手伝うのは、恭子自身も危ない姿勢になったり、辛かったりもする。それでも、房子のためにやっていた。

「いやだなぁ、言ってくれれば良かったのに」と房子に言った。体質的なものなのだろう、恭子もちょっとぶつけたりすると、すぐに青や赤のひどいあざができる。房子の腕のあざも、少し薄くはなっていたけれど、紫色が結構広範囲に広がっていた。

「誰かにあざのことを訊かれなかった?」

と訊くと、房子はしばらく考えてから、訊かれたかもしれない、と言った。

「何て答えたの?」

と訊いても、はっきりしたことは言わない。

とたんに、恭子の頭に、過去の房子の打算と意地悪さが思い浮かんだ。

房子は自分が「かわいそうな人」を演じて、他人から同情を得るのが好きだ。もしかしたら、また、恭子を悪者にしたてたのかもしれなかった。

「そんなはずもないでしょうけど、娘が暴力をふるったなんて思われたら嫌だから、ちゃんと言ってね」

と言うと、房子はあいまいに笑っている。「まさか、そんなことを言うわけないでしょう」とも「親切でやってくれているのに」とも言わない。

恭子に対してやさしい気持ちがあれば、「恭子につかまれた時・・」ではなく、「恭子が階段を上るのを助けてくれた時」とでも言ってくれるはずだった。

房子は自分のことを立派に見せ、幸男をかばい、他人を誉めたたえ、そして、日頃がんばって世話をしている恭子を、あたかも暴力をふるう娘のように伝えるのだ。

恭子はすっかり気持ちが暗くなった。いくら何でもひどい。報われない、と思った。

 そう言えば、房子が伊勢の親戚に、電話でこんな言い方をしているのを聞いたことがあった。電話の相手は佐和子さんとは別の従弟だった。

「恭子でさえ、クニさんのことを、やさしいおばさんだと言っていた・・・」

 クニさんと言うのは従弟の亡くなった母親であり、シカの姉だ。佐和子さんの伯母でもあった。クニさんは、歳を取ってからも、何回かシカに会いにきて泊まったことがある。やさしくて、恭子は大好きだった。

「恭子でさえ」って、どういう意味だろう。

房子の、その言い方に、恭子はえ?と思った。

まるで、恭子が冷たい人で、他人を誉めないようではないか。気分が悪かった。

 電話を切ってから房子に訊くと、別に他意はないようなことを言う。

 出かけていた卓雄に意見を求めても、やはり、ひどい、と言った。それを伝えると、房子はただ「ごめんなさい」と軽く言う。

 けれど、房子の「ごめんなさい」に、恭子は一層傷つく。

「違うのよ、こういう意味なのよ」とでも言い訳してくれた方がマシだった。実の娘を、こんなに貶めていく母親って、いるのだろうか、と悔しくなった。

 ずっと以前、元気だった佐和子さんが東京に来て、恭子の家を訪ねた時にも、え?と驚いたことがあった。

 初めて訪れた恭子の家の中を眺めていた時のことだ。房子もそばにいた。

 佐和子さんはピアノの部屋を眺めながら房子と、久美が音大に入る話をしていて、

「大変やなぁ。おかあさんもまた、がんばらなあかんな」

と言ったのだ。

 久美が音大に入るのに、房子ががんばるって、どういうことだろう。まるで、房子が学費を出すためにがんばるようではないか。子供達の学費については、卓雄のボーナスをほとんど使ってやりくりしているというのに。

 佐和子さんの言葉を聞いて、房子は、恭子の前で言われてまずかった、とでもいうように、恭子を見て首をすくめた。やはり房子は佐和子さんに、自分が孫の学費を全部払っていると、大風呂敷を広げているのだ。

 その時も、自分さえ立派に見せれば、という房子の虚言癖を、苦々しく思ったものだった。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

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