『偽る人』(揺れる) (第73話)
施設の準備(1)
携帯電話に電話がかかってきて、房子がごまかすことは、それからもあった。明らかに房子からかけていたのが分かる内容なのに、ごまかしたり、嘘をついた。電話を受けるのが、恭子が目の前にいる最悪のタイミングだったのだろう。
「おかあさんのことを、全然信じられない!」と恭子が怒っても、房子は平気な顔をしていた。それどころか、
「ね、早くでていかなくちゃね」
などと、憎らしいことまで言った。
施設に入るまで、まだ三週間もあるのに、こんな、最悪の関係で一緒にいるのが辛かった。
房子は、あたかも自分が被害者であるかのようにふるまった。裏ではいろいろ画策しながら、表面おとなしく、弱々しいふりをする。
策略か、ボケているのか、それとも違う人になるスイッチを持っていて、それに自分で気づかない病気なのだろうか・・・。
こんな人のお世話をして、自分の時間、人生を失ってきたのかと思うと、悔しくてたまらなかった。
ここから出て行けば、誰の世話にもならなくていいと、房子は思っているのだろうか。
房子は伊勢の親戚にも電話をして、佐和子さんのような施設に入れないかと、相談していたことも分かった。芝居の上手な房子によって、「かわいそうな房子」の噂は、あちこち広まったのだろう。もう、なんとでもなれ、と思った。
房子が絵手紙の人達と泣いて抱き合っている図が、いつまでも頭に浮かび、苦しくなった。胸に鉛が入っているようだった。
毎日のように、房子が恭子の心を凍らすひどさを見せてくれて、そのたびに恭子は、これでよかったのだ、と思い直した。
房子が、ここでの日々を、どんなにありがたかったか、どんなに自分がいけなかったか、と後悔する日は来るのだろうか。
施設に行って、今まで、どんなにわがままな生活をさせてもらっていたか、しみじみ思い知ってくれればいい、と思った。
房子の荷物の片づけは、大変過ぎて、途中で投げ出したいほどだった。やってもやっても、終わらなかった。
毎日、毎日、房子の部屋の片づけをした。施設に持っていくもの、置いていくもの、捨てるもの、あげるもの。掃除機とダスキンで埃をとりながら、おびただしい片づけを続けた。
もう、房子が亡くなる前の、大整理だと思った。
片づけながらも、時々、やっぱり気持ちが揺らぎそうになることはあった。本当にこれで良かったのかと。
今までの苦労と忍耐を、途中で投げ出すような無念さもあった。
そのうち、とうとう施設の契約の日がきた。施設に行って、書類に名前を書いて、印鑑を押して、これで施設に入居することが決定的になった。
もう、後戻りはできない。
まだ入居まで二週間くらいあったけれど、荷物は搬入してもいいということで、片づけを急いでいた。
そんな慌ただしい最中のことだった。朝食の前に、房子が突然、思い余ったように、恭子に言った。
「私も悪かった。ここに居させて」
テーブルの前に座って、房子は神妙な顔をしていた。
契約の翌々日だった。卓雄もいた。
恭子は息を飲むほど驚いた。まさか、今になってとは・・・。
房子のそんな言葉を予想もしていなかったので、恭子は心の準備ができていなかった。咄嗟に何と答えればいいのか分からない。心の中では、大きな波が立っていた。
「以前もこんなことがあったけれど、おかあさんは、何も変わらないから」
心の準備ができていないまま、恭子は思わず言ってしまった。ずっとトラブル続きで、気持ちの余裕がなかったのかもしれない。
すると、思い切って言ったものの、プライドが頭をもたげたのだろう、房子はそれ以上はもう言わなかった。恭子の言葉に、うんうんとうなづいていた。
恭子は心の中で、房子が今の言葉をもう一度言ってくれることを願った。房子がもう一度繰り返したら、負けてしまいそうだと思った。房子を抱きしめて、契約を破棄しに行ってしまいそうだった。
けれど、房子は、それっきり言わなかった。
翌日、房子に、何故ここに居たいと思ったのか、訊いてみた。
お金のため? と訊いたら、房子はうなづいた。お金は、自分のためでもあるけれど、恭子達のためでもある、と言った。
呆れてしまった。施設に行ったら、お金が何も残らないから、恭子達のためにここに居る、という体を装いたかったのだ。ほんとにかわいくない。
「おかあさんは、やりたいことをやってきたでしょ。恵まれていた方でしょ」
と言うと、房子は黙っていた。
そして、しばらくしてから、
「複雑・・」
と、ぼそっと言った。
複雑、と言うことは、ここに居て、悪いこともあった、ということを言っている。それはそうなのだろうけど、今ここで言う言葉ではないのに、と思った。
その数日後に、久美夫婦や亜美夫婦の力も借りて、荷物を施設の部屋に運んだ。
房子も連れて行ったので、房子は部屋で待っていた。荷物は一回では運べない。次の荷物を運ぶまで、エレベーターがなかなか来ないので、房子はその間ひとりきりになった。
荷物が半分置かれた部屋の中で、房子がどんな気持ちでいるだろう、と恭子は思った。
時々気持ちが揺らぎそうになりながらも、房子が恭子の心に氷水をかけるようなひどいことをする。
もう、引き返すことはない、と思っていた。
それに、やることがあり過ぎて、恭子が立ち止まって考える余裕もなく、事が進んでいっていた。
手伝ってくれた娘達が子供を連れて家に泊まったり、来日することを伝えてきたドイツ人の友人と、辞書をひきながら連絡をとったり、毎日いろんなことがある。些細なことでも、わずらわせる何かがあると、恭子はいっぱいいっぱいになって、パンクしそうだった。
登場人物紹介
恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。
卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。
房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。
幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。
悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。
やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。
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