【小説】兄がいた

 ヨシツグは不満だった。両親が彼に対してあまりにも過保護なことにである。
 もう十四になろうというのに、車通りが多いからと一人で買い物にもなかなか行かせてもらえないし、学校からの帰りに少し連絡を怠ろうものなら友達の家に連絡がいってしまう。そのようにうんざりすることが多々あるも、それを言い返しにくいのは、ヨシツグには会ったこともない兄がいて、その兄は五つになるかならないかというところ、交通事故で死んでしまったからだった。
 そのときの両親の悲しみたるや、今ヨシツグに知る術はないが、知らないからこそ想像することもあり、頑なに両親がヨシツグを死なせないように振舞っているのだと思うと、口をつぐんでしまう。逆に、十四歳になった男が、はたして、どの程度の不注意があれば死に至るのかというのも想像すると、よくわからない。爆弾なんて落ちてきたら、ヨシツグどころか、母さん、父さん、クラスメイト、先生なんてみんな吹っ飛んでしまうのだろうし、ヨシツグだけが、例えば交通事故で死のうものなら、それでいて母さん、父さんは今度こそ狂ってしまうのかもしれないと考えると、それはそれで熟れていないきゅうりを丸かじりしたかのようなやるせなさにヨシツグは襲われた。


 それでも、友人たちとの一泊旅行を断固反対されているのをヨシツグは許せない。
「これがだめなんじゃあ、修学旅行なんていけねえんじゃねえのか?」鼻で笑うように言ったヨシツグに、「本当は、修学旅行だって行かせたくないわよ」とまっすぐ言い放った母はあまりにも真剣な顔をしていた。

「そんなに死ぬな死ぬなって思われてるとさ、いっそ死にたくならないか」タケノリがコーヒー牛乳のストローの袋をぐしゃぐしゃに潰した。
「俺だったら、死にたくなると思う。最近、ババアとジジイには何言われても歯向かいたくなって仕方ねえよ」さらに続けて、自分の首をおさえるような仕草をしてけらけら笑った。
「よせよ」ヨシツグはタケノリの手をそっと触って制止した。気持ちはタケノリと一緒なはずなのに、話を聞くのが憚られたからだ。屋上から見下ろしたグラウンドはあまりにも遠く、背筋が震えた。

 どおん、ぼかん。
 いつだってヨシツグの脳裏に聞こえてくるのは全てをかき消すような爆発音だ。しかし、聞こえてくるのは音の裏側にある静寂だけで、実際にどんな音がするのか、と思うとヨシツグにはよくわかっていない。それでも、静かな爆発音が鳴り止まない。
 夜、眠るのが怖い。それは両親どころか誰にも語れないヨシツグの悩みだ。ときには身体が震え、下手な深呼吸を繰り返すようにして、なんとか落ち着こうとする。涙がたれる。しかし次の日はいつものように学校に行く。昼間はまだ平気だった。昼に授業があって、給食を食べて、やっと眠くなるというのに、寝てもいられない。昼でも、たまにヨシツグは一人で爆発音を聞くときがある。それは友達と馬鹿な話をしているときの隙間とかに、ふっと周りが暗くなって、音が止む。どおん、と静寂の中に無音が鳴って、一瞬でこの学校が更地になるのを想像するのだ。震えないように、ヨシツグはしっかりと唇を噛む。次の一秒、次の二秒……大丈夫、ちゃんと生きている、続く、続く……。


 その日の夜、近所に住む叔父が家に来ていたのは知っていた。母の弟にあたる叔父は、育児に慣れ始めた両親が、抜け殻に変身していくのをしっかりと横で見届けていたらしい。そして、そんな抜け殻夫婦が新しい命を授かり、砂を水で固めて塗りたくるようにして、どうにかこうにかヨシツグを生成していくところまで、じっと見ていたと聞いている。

「なあ、そろそろ、ヨシツグを解放してやれよ」
 叔父の通る声が聞こえてきて、ヨシツグは階段を下りる足を止めた。しゃがみこんで目を瞑り、耳だけに神経をいきわたらせようとする。なあ、というのは叔父の口癖だった。少し言い出しづらいことを口に出すときに、勢い余ってつける。それだけで、ヨシツグは自分が気遣われていることを知って、少し黙ってしまうのだ。
「あいつももうすぐ高校生になって、その後は就職か進学。いつかはここを離れるのはわかってるんだからさ」
「解放って」母の声だ。「今私がヨシツグを束縛してるって、思うのね」
「当たり前だろ、聞いたぞ、毎日毎日……町中で噂されるくらいには、君らは異質だよ」
「わかってる、けど、わかっていないんだと思うわ」ヨシツグには、母が目の光をなくして伏し目がちになる姿が、見えないけれど見えた気がした。
「私たち、いつになったらわかるのかしら。ヨシツグがもっと反抗して反発して、家出なんてしたら、わかるのかしら? 心配して、いてもいられなくなって、警察に連れ帰られたぼろぼろのヨシツグなんか見て、一人でテントでも張ったとか、アルバイトに応募しようとしてたとか、そういうの聞いて、ああ、大丈夫、立派になってる、とか、考えて、涙したりすれば……」

 ヨシツグが立ち上がったことで、階段がきしんだ。そのままヨシツグは大きな音を立てて階段をあがり、部屋のドアをいきおいよく閉めた。布団に転がって、息が苦しくなるくらいに枕に顔をうずめてみた。今日は爆発音が聞こえない。まるで、母が自分の首につけた首輪をまだ外す気がないことを知り安心したかのようで、ヨシツグを舌を軽く噛んだ。そうではない、いや、きっとそうにちがいない……頭の中で二人のヨシツグが反論し合っている。

 どうしてこんな音が聞こえるようになったのか、ヨシツグは明確に思い出すことはできない。生きていたから、というのが正しい答えかもしれなかった。いつからか、と考えると、ヨシツグが兄の死を意識するようになってからだったように思う。両親は兄の死について詳しく語ることはない。だからこそ、余計に意識させられるようになった。一度、「あなたにはお兄さんがいたの」だとか、「交通事故で亡くなってしまって……」だとか、そういう話が義務的な面持ちでなされたとき、ヨシツグは今目の前にいない兄が自分にいたということについて、あまりうまく想像することができなかった。しかしそれは実感が沸かないから考えることすらできない、というわけではないことが、すぐにわかった。それからヨシツグは兄のことを考えたくないときもよく考えるようになり、兄が死んだ、という事実が成す、人が死ぬといなくなる、という部分について、考えるようになっていた。そして考えれば考えるほど、自分が死について周りから取り残されているように思えた。歴史の教科書で人がたくさん死んだ戦争や公害が写真付きで掲載されている。理科の実験では取り扱い注意の毒物が棚に並んでいる。周りがそんな環境に囲まれているのに、クラスメイトはホラー映画に出てくる幽霊の方を恐がる。死を意識せずに生きていくことができる人は、死が怖くないのだろうか、とも思う。そんなことはない、とそれもまた自分ですぐに否定するが、だとしたらどうやって死を考えずに生きていられるのか、わからない。死にたくない、死にたくない、と思えば思うほどに、いっそ死ねばこんな恐怖などないのかもしれない、と腑に落ちたようになる。それをまた否定して、ただ恐い、恐いと思い続けて、今日もまたヨシツグはうまく眠れない。


「若いやつほど、死にたがりやがる」ヨシツグははっとして、常口の顔を見た。常口は保健を担当科目としている教師だ。体育も兼任してはいるが、いつもいかにも不健康な酷いクマを作っており、生徒には死神なんて呼ばれている。ヨシツグはさっきまで進んでいたはずの授業内容を少し思い返そうと、教科書に目を落とした。
「簡単に死にたい死にたいって言うのは、正にお前たちくらいの年代なんだよなあ。死ぬってことがどういうことかわかってもいねえくせに」
 心の発達、身体の変化……項目名を目で追いながら、ヨシツグは耳の中で常口の言葉がリフレインするのを聞いていた。しかし常口は自分でも何が言いたいのかまとまっていないのか、口を尖らせながら、転ぶのが下手な子どものように言葉をただただ重ねていくだけだった。
「後ネットで自殺志願者募集だ、なんだってよお。一人で死ねないんなら、死ななきゃいいのになあ……」
 ヨシツグはむずがゆさを押し抱こうとして、周りのクラスメイトの顔を横目で観察した。皆、いつもと変わらぬ顔だ。ヨシツグが爆発音を聞いているときと、変わらない。
 死ぬってことがどういうことかわかってもいねえくせに。死ぬってことがどういうことかわかってもいねえくせに……。常口の口元の動きが、ヨシツグの脳裏に捨てられたガムのように貼りついた。



 友人との一泊旅行は、結局半ば強制的に行われた。友人の親戚の家を宿泊地とし、たった二つだけとはいっても県をまたいだことによる興奮は大きい。名物だというコロッケを一つ買い食いするだけであっても、少しだけ自分が大人になったように思えて嬉しかった。旅行中、ヨシツグは両親の反対を押し切ったことをたまに考えては、不安になった。怒られる、心配をかける、というよりは、自分がもしここで死ぬようなことがあったら、という不安だ。両親は嘆き悲しむだろう、という思い、が建前で、本当はただ、自分を巻き込むような爆発音が聞こえてこないことばかりを考えては、祈っていた。両親への哀れみよりも、ここ最近は自分の問題の方が深刻だ。友人と話しているときだけは、自分が友人たちと同じように振舞えているように思えて安心できた。どうして俺は死にたくないのに、死ぬことばかり考えているのだろう、とヨシツグは頭が痛くなる。友人たちはどうして、こんなに……。どうして自分ばかりが背負う必要があるのか、と思うと、兄の死をこんなにも植えつけてきた両親が、憎くなる。

 一日半ぶりの我が家は、夜の闇の中でぼんやりと光っていた。いつもなら、眠っているような時間なのに……いや、当然か、とヨシツグは少し深呼吸をして、ありうるであろう反応をいくつもいくつもシミュレーションし、いざ足を踏み入れた。
 光が弱かったのは、台所の電気だけがついており、リビング自体は暗いからだった。両親は、リビングで椅子にも座らずに待っていた。ヨシツグは目をふせたまま、痰を吐くようにただいま、と言った。
「おかえりヨシツグ」
 不気味な笑顔がそこにあった。ヨシツグは、両親の顔を見比べた。母と父はこんなにも似た顔だっただろうか。
「話があるんだけど」
 母のあらたまった声色が、鈍く通る。同時に、二人の顔が仮面のようにはがれて落ちるような音がした気がした。母は言った。
「あなた、今度お兄ちゃんになるの」
 息を呑んだ。
「今まで悪かった。宜しく頼む」
 続けて父が言った。ヨシツグには母の少し安心した声色を、そして父のやりきったような謝罪を、受け止めるほどの気力はなかった。そっと首に手を置いてから自分の頭をなぞるように髪をかきわけ、ただ頷くだけでヨシツグは黙っていた。足元に落ちているはずの仮面は見えない。ただ、目の前の両親が抜け殻を演じながら、少しずつ中身を作りあげていたことだけがわかった。
 待ってくれ、どうして。どうして? 母さんは、父さんは、きっと俺のために、いや、違う、本当は自分たちのためで、でも、もう兄が死んだことは俺の中にあって、消えることはなくなってしまった。母さん、父さんの中からは、兄は、どうなってしまったんだ?
 ヨシツグはふらふらと部屋に逃げ帰り、声を出さないように気をつけながら、しゃくりあげて泣いた。一人の中に泣き声を閉じこめて、どうしてこんなに怖いのかわからなくって泣いた。途端の、爆発音。はっとする間もなく周りが暗くなる。ヨシツグは耳をふさいだまま後ろを振り返ると、一面の黒の中に、丸くスポットライトのような光があたっていて、そこにはぼうっと人が立っている。
「兄さん」ヨシツグは静寂の爆発音の中に静かな声を入れ込んだ。そこに立っている者の顔や服装や身丈はわからない。ただ立っていることだけがわかる。しかし、ヨシツグにはそれが兄だとしか思えなくなっている。静寂を重ねる。爆発音はこだまするようにヨシツグの四方へと散っていた。兄らしき姿だけが、まっすぐとヨシツグの先にいる。
 死ぬのって、こわい? 死ぬと、どうなる? 死ぬときは、くるしい?
 ヨシツグは兄に聞きたいことがいくつもあった。しかし、それらの質問は音どころか形にもならない。行き先をなくしたそれらは、静寂の中を土星の輪のようになって、めぐりまわっている。俺が死んだら、兄さんは一緒にいる? その質問もまた輪上に上がっていったとき、ヨシツグは、兄の姿に恐ろしさを感じながらも、救いを求めていたことに気づいた。死んだ人が、目の前にいる。つまり、死んだ後は、無ではない。そうだろう、とヨシツグは自分に言い聞かせるようにした。兄さん。喋ろうとしない兄に、ヨシツグは一歩近づこうとする。しかしその瞬間、言葉の輪が全て螺旋のように絡まって、スポットライトの周りを渦巻いた。「兄さん!」手を伸ばしたところで、ヨシツグの視界に暗い部屋が見えてきた。右から月明かりが差し込んでいる。ヨシツグは幾度か目をつぶってみるが、そこにあらわれるのはただの暗闇で、兄の姿はなかった。
 まだ見ぬ弟か妹の姿を思い浮かべようとしても、ヨシツグの脳裏にはさっきまでの暗闇と、無機質な螺旋構造や、白いおたまじゃくし、と理科の教科書で見る平たいイラストしか存在していない。
 兄は今、一人なのだろうか。今までは母さんと父さんが、兄の傍にいたのかもしれない。しかし、俺ができて、さらに俺を放してしまったから、一人なのだろうか。そして、俺はこれから一人になるのだろうか。兄さん、大丈夫、俺がいる。一人じゃない、俺がいる。生まれたことはあるが、死んだことはない。しかし、生よりもよほど死の方が近い、とヨシツグは思っている。生と死という連鎖を切り離す方法ばかり考えているが、たまに、全てを断ち切るように誰かの声が聞こえる。死ぬってことがどういうことかわかってもいねえくせに、とその声は言う。




2017年11月 名前お題『ヨシツグ』
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