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【小説】アンチオキシダント

 食品添加物を沢山摂取した人間の死体は腐らないという話を知っていますか?
 僕は昨日、電車の中でそんな話をしている学生たちを見かけました。思わず聞き耳をたててしまったのです。こうやってよくわからない知識が毎日蓄積されていって、重要なことを忘れていく人生を過ごすのかもしれないなあと思うと、なんだかそれはそれで楽しいような気がします。そんなことを、新生活が始まったばかりで考えてしまう僕は、まだ心が脱皮できていないのかもしれない。でもそれが良いことか悪いことかは、これから僕が考えていくことだ。
 最初の話に戻るけれど、引っ越ししてからコンビニ弁当を食べてばかりの毎日を過ごしている僕は、どんどん腐らなくなっていく気がします。君がたまに作ってきてくれた、煮物がたっぷりのお弁当がまた食べたいなあ、なんて思いました。では、また。



 シンプルな封筒がかさりと音を立てる。斜め上がりの癖字なのに、何故か礼儀正しく見えた。冒頭文を噛みしめるように何度も口に出して読んでみると、クニのことを思い出すよりも先に、コンビニ弁当なんて二度と食べたくないような嫌な気持ちになってきた。引っ越してから初めて送る内容にはそぐわないように思えたが、それがまたクニらしい。着替えをしようとクローゼットを開けた。中には、表面がつるつるとした木製のハンガーが寒そうに幾つか並んでいる。昨日模様替えをして、コートをしまったことを思い出した。例年同様、春が来た。


 私たちの街は、普通だ。
 つまり、普通化政策によって指定された都市ということである。歴史とか経済に特に詳しいわけでもない私は、教科書的な知識として普通化政策というものを知っている。私が生まれるよりずっとずっと前に制定された大きなルール。きっかけは、ある日の定例国会で今後の政策について激しい議論が交わされる中にふわりと落ちてきた、環境大臣の何気ない一言だったらしい。

「どうしてこんなに完璧に拘っているのでしょうか」

 他人事のような発言に、全体が静まり返る。その空気に何かしらの手ごたえを感じ取ったのか、彼は勢いをつけて言葉を続けた。
「私たち政治家は、自国をよりよいものにするために日々努力を怠りません。それこそが私たちの仕事であるからです。その結果が、今です。よりよくしていこうとしているのに、状況は目に見えてどんどん悪くなっている。その結果よくするどころか、現状でし得る限りの改善を迫られています。これはおかしい。それなら最初から、力の入れどころと抜きどころを作って、優秀なものは優秀に、そうでないものは程々に。そう定めて取り組むべきだ。中くらいのものというのは、改善される程悪いものでもないからこそ、さらなる進化を期待されます。しかし、進化途中で失敗してしまったら、改善を求められる。それなら程々の状態で止まって、現状維持の方がいい。そんなに悪いことではないでしょう。程々の人が胸を張って生きていける場所こそ、今必要なのではないでしょうか?」

 彼のスピーチは、国会議員が溜めていたストレスや心に染み渡った。皆が皆、毎日変動する社会情勢と、溢れかえって仕舞いには崩れていく諸問題の山に疲れ果てていた。誰もが前向きな言葉を吐きながらも、全てを解決するなんて起こりえないという共通意識を胸に抱いていたのだった。また、国民も疲れていた。政治的な問題を抜きにしても、自分が程々であるが故に悩んでいた人間は、多く存在していた。誰にも負けない特技が見当たらない。成績も中の中。加えて、改善を必要とするレベルの就職難に、他の国では考えられない程の激務。自分は普通の人間なのに、どうして努力どころか、無理までしなくてはいけないのだろう。多くの一般人がそう思っていた。当時の流行からも、見て取れる。アイドル文化が最もわかりやすい。眉目秀麗なモデルよりも、親しみがある普通の外見をしたアイドルがメディアを独占した。人々が、自分の手が届きそうな近しいものに癒しを求める時代になっていたのである。普通の人生なんてつまらない。そんなキャッチコピーがあまり響かなくなった。逆に、普通が一番。そんな考えが広まった。それを少し荒っぽい方法で、国民全体に向けて初めて指摘したことに大きな意味があったのかもしれない。
 そして報道により、その様子が国に伝わった後は、早かった。体制が整えられ、普通化政策を課す都市の数や場所などの制定が次々とされていった。今までもこのくらいのスピードで、次々に考えて実行していたのなら、完璧も目指せたのではないか? と新聞記事で揶揄されたらしい。
 今は各地に上昇志向都市と安定志向都市がバランスよく存在しており、それぞれがジョウト、アントなんて気軽な略称で呼ばれている。
 勿論アントで生まれても、自分に自信を持って大きな夢を持つ人はいるし、逆もしかりだ。そういったミスマッチをなくすために、思い立ったらすぐ移住できるように引越し、転校・転職のサービスや手当ては充実しているし、小・中学校、高等学校全てに、別志向の都市を訪れる研修旅行もあるといった具合だ。

 私は小さなアントで生まれ育ち、自分でもこの街があっていると感じていた。私の考え方に大きく影響を与えたのは、幼馴染のクニだった。クニの家とは家族ぐるみで昔から親しくて、私やクニの誕生日にはお互いの両親も含めて全員で誕生会を開いたりした。また家が近いこともあり、登下校も一緒だった。お互い上の兄弟が一人ずついるが、どちらも中学生にあがると同時にジョウトへと移住してしまった。そのために二人ともひとりっこのような感覚を持っていて、そういった思考も知らず知らずのうちに共有していたのだと思う。クニはよく笑う。初めて会ったときからなんとなく、前も会ったことがあるような錯覚をさせる笑顔を持っている。私が幼稚園で初めて彼と会話したときですら、幼心に小さな既視感を覚えたくらいだ。さらに印象が薄い顔立ちをしているので、よく似た人を見る。また、いざ本人と並べたらきっと全く似ていないような人でも、似てると感じてしまわせるような能力がクニにはあるのだと思う。

 高校一年生のときの夏の情景を思い出す。学生時代の云々というのを思い返しては、良かったなあ、あの頃は。と一息吐いてみる流れ。それこそが、人生の愛おしい通過点として存在している。それは誰が思考をどう持とうが変わることはないのだと思う。学生時代に嫌なことがあったなら話は変わるかもしれないが、それこそが私には想像もつかないことだ。例えば、トラウマの代表例としていじめってものがある。しかし私は生まれてから今まで、いじめっこもいじめられっこも見たことはなかった。皆が皆普通で安定していたいがために、いじめは起こらない。それがアントの特徴だった。
 母校のプールは、グラウンドの隅にひっそりと佇んでいた。静かに、邪魔をしないで夏を待っているような淑やかさが私は好きだった。そしていざ夏になると、これでもか、といった具合に存在感を出してくる。体育教師が磨いた真っ白のタイルが、ある日突然きらきらと現れて、私たちはそれを教室の窓から見つける。そうして今年も夏がやってきたことを知るのだ。
 毎日のようにぎらぎらした太陽が、吹きさらしのプールサイドを照らして上機嫌そうに笑っていた。カルキのにおいですら彩りを与える要素の一つになって、四角い世界を綺麗に作り上げていく。グラウンドから見ているときは何も気にならないような雑草が、水に浸かりながら見ると露に濡れたリュウゼツランのような荘厳さを帯びる。軽い湿気を踏みしめながら、少し日陰になった場所を見つけてクニが止まって、座った。私も並ぶように腰をかける。
 私はクニの体で肘が一番好きだった。満月を二つに割って付けたみたいに白くて上品なそれが、角度によって表情を変える。クニの顔を見ているよりも、肘を見ている方が、私はクニのことがよくわかる気がした。

「外国行ってみたい」
 私は抑揚も付けずに呟いた。クニは得意の馴染みやすい笑みを見せる。
「ナギが? 英語嫌いなのに」
「そういう話じゃなくて。ニュースとか見てるとさ、海外って未知のもの過ぎて気になるじゃない」
「海外が気になるってことは、ジョウトに行きたいの?」
 そのときのクニの、真っ直ぐで穴を開けそうなくらい尖った視線が忘れられない。私はそんなつもりなんてなかったけれど確かに、未知のものを追い求めるという発想はジョウト的だったかもしれない。まだ私たちは、清清しい風が毎日同じ角度から吹くと信じて疑わないような歳だった。しかし、それは私だけだったのだろうか。何故か恐ろしい気持ちになって、慌てて否定した。
「別に。ただ漠然と、海外ってどんなのか気になるだけ。よく知らないけど」
「ああ、そう」
 クニは水の張られたプールに視線を落として、揺れる水面を眺めていた。首が鳴る軽い音が、湿った空気に浸透していく。なんとなく機嫌が悪いということが、皺の寄った肘を見てわかった。私は話題を変えようと、休日にわざわざ学校のプールに誘ったのはどうしてかを聞く。クニはそうだった、と荷物をごそごそし始めた。
「これ、ナギの分。一緒に絵を描こうと思ったんだ」
 クニはリュックからスケッチブックと、水彩絵の具のセットを取り出して私に渡した。
「プールを、描くの?」
「スケッチじゃない。想像で描く」
「え?」
「お題は、このプールに泳がせたい魚ってのはどう?」
 クニはそういって、絵画用のバケツをプールに沈めて水をすくった。私は提案された不思議な遊びに胸が高鳴った。クニは同い年なのに、他の同級生とは違った仕草や言動が垣間見えた。私はそこに少し憧れのようなものを抱いていたのだと思う。下書きは二人とも短い時間で終わらせた。それは二匹とも種類も定まっていないような謎の魚だった。そして私もクニも、色塗りに気合を入れる。私は青く、クニは黄色に塗った。完成して見せ合っていると、こういうの個性が出るね。とクニが言う。

「僕たちはそれぞれが個性的だ。皆違う力や考え方を持ってる」
「皆が程々に生きているからって、同じってわけではないものね」
「そういうこと。それって素晴らしいと思わないか。それに、程々どころか、何かが欠けているからこそ美しいものもあるんだよ」
 そう言ってクニは、またリュックをあさり始めた。緑色の表紙のスクラップブックを取り出す。中は雑誌や新聞の切り抜きから、クニが自分で書いたメモまで雑多に詰め込まれていた。何度も開いているのだろう、クニはすぐに目的のページを見つけて私に見せた。そこには様々な角度から撮られた両腕のない女性の石像の写真が並べられていた。
「ミロのヴィーナスだよ。彼女には腕がない。でも、綺麗でしょう?」
 クニの問いかけにも答えずに、私はぼうっとそれを眺めながら、奥底から浮き上がってくる靄のような光を感じていた。その様子を見てクニは黙ってページをめくる。今度は、頭と腕のない、羽の生えた石像の写真。
「こっちは、サモトラケのニケ。勝利の女神を象ったものだよ」
 写真の首のあたりをなぞるように触る。私がそのときどんな顔をしていたのかは、私にもわからない。クニだけが知っている。私の描いていた世界というものが、見えない両手で広げられた瞬間だった。
「どうして?」
 どうして、この石像は欠けているのか。どうして、欠けているのにこんなに綺麗なのか。こぼれるように言葉が落ちた。クニはそれを全て察するかのように言葉を続けた。
「大昔のものだからね、全てが揃った状態で見つかる方が珍しい。でも、このミロのヴィーナスは、腕の復元案が幾つもある。こっちのニケも、ちゃんと顔がある石像も多数あるよ。だけど僕は、この状態の彼女たちが好きなんだ。そこに腕や顔はないけれど、一体どんな顔をしていたのか、想像するだけでわくわくすると思わないか」
 私はページをめくる指先から辿るようにして、クニの肘を見つめた。ぽつりと付着した黄色い絵の具がもう一つの太陽のように思えた。私はそれこそ普通に、なんとなくで生きてきたからここにいるけれど、クニはアントにいる理由を彼なりに持っていることをそのとき感じた。


 自身の思考を見直す人が最も多いのは、大学・就職活動の進路選択、つまり高校三年生の時期だ。就職景気というものを、私は特に気にしたことがない。やっていて楽しくないこと以外を考えていれば、余程無理な条件でない限りそれなりに満足した職に就くことができるといって良いと思う。より難しく、才能や技術を求められるような人気の職業を志すなら、ジョウトに行くことだ。勿論、人気職業の門は狭く、皆が目標を叶えられるわけではない。しかし夢追う人々はそれも承知だ。やる気に満ち溢れている彼らは、切磋琢磨しあうことすら楽しんでいるのだ。私はそんな攻防に参加しようとはどうしても思えない。勝つ気もなければ、負けるのも嫌だ。そういう面でもやっぱり根が安定志向なのだなあと思う。それなのに、いやそれだからこそ、海外に行ってみたいというなんてこともないちょっとした願望を何も考えずに言ってしまった。その軽さが、クニを怒らせたのかもしれないと私は考えていた。


 二年がたって、私たちは時の流れに沿って高校生三年生になった。季節は冬で、もう大体の人が進路を決め終わった時期だった。この街では十二月の中旬にもなると毎年、全体を包むように雪が降る。そうして全てが白くなると、どうしてか冒険心が宿った。それに高校生活最後ということもあって、好奇心が普段よりも沸いていたのだ。

「ねえ、トンネルに、行ってみない?」
 金曜日の授業が終わった後に、開口一番で提案する。いつもクニに誘われてばかりだったので、私から誘うのは新鮮だった。
 私たちの街には、立ち入り禁止の廃トンネルがあった。人はおろか、動物すら住み着かないという噂があり、子どもの頃、「悪いことをしたらトンネル連れてくぞ、お化けに食べられちゃうぞ」とよく脅かされたものだ。
「不思議だなあ」
「なにが?」
「僕も、近々行ってみようと思ってた」
 気が合うね、と言ったクニが私に気を使って嘘をついていないことがなんとなくわかって嬉しかった。すぐに日にちと待ち合わせ時間を決めた。こういったイベントで、子どものように楽しめることが嬉しいと思う。歳をとればとるほどに、変わらない日常への愛しさが募っていくのを感じていた。

 当日の空は、大きくて薄い雲が覆っていた。雪が降らなくてよかった、と二人で言い合って、山のような森の端を歩く。眠っているであろう動物たちの気配を探るように息を吸っては、その分だけ、白く吐き出した。二人分の呼吸のリズムはいつになっても合わない。クニの水色のマフラーがたまに解けそうになっては揺れた。
「あのトンネル、色んな噂が一人歩きしてたよね」
「巨大ムカデがでるとか、赤ちゃんの泣き声が聞こえるとか」
「そうそう。僕も一つ考えて、友達に話してたよ。そんなに流行らなかったけど」
「えー。そんなことしてたの?」
「うん。ナギは恐がるだろうから、言わなかった」
 私はクニにどんな話を考えたのか聞こうとしたが、クニは、もう忘れたよ。と斜め上を見つめながら言うだけだった。段々と目的地に近づくにつれて、寒さも強まっていく気がする。
「私、子どもの頃は近づくことすら嫌だったわ。トンネルの外見を初めてちゃんと見たのも、中学生になってからだったもの」
 砂利や大きめの石を踏みしめながら一本道を進んだ。そしていざそのトンネルが現れたとき、思わず息を飲んだ。中学生の頃に確認したものと今日のそれは全く変わりなかった。名前のわからない植物が狂ったように生い茂っていて、その上空を烏が舞っている。トンネルの中は昼にも関わらずブラックホールのように暗い。何もかもを吸い込みたくてたまらないとばかりに、ぱっくりと開いている。地獄がもしあるとしたら、入り口はあんな感じなのかもしれない。目の前にすると、子どもの頃の感情が蘇ってきて軽く身震いした。しかし植物の大体は雪に埋もれていたので、他の季節に見るよりはもしかしたらマシなのかもしれない。

 中に足を踏み入れると同時に、小さな耳鳴りが始まった気がした。懐中電灯のスイッチを入れてみても、元々の暗さに霧のような不鮮明な空気が加わって、全体像がさっぱり掴めない。外とはまた違う、ひんやりとした氷のような寒さが身体にぶつかってくる。歩き始めてから五分程たっただろうか。情景は何も変わらないし、クニも私も一言も言葉を発さない。小学校のときの研修旅行で、初めてジョウトに行ったときのことを何故か思い出す。その空間で、自分だけが異物であるような感覚。今はクニがいるのに、と言い聞かせても、その不安が拭えない。もう引き返さないか、と言い出そうとしても声が出なかった。クニは何か目的でもあるかのようにまっすぐ歩き続ける。コンクリートを踏む音だけが小さく響いていた、はずだった。

「おい」

 そのとき暗闇から放るように投げかけられた声に、私は思わず叫んで隣のクニの腕を掴んだ。体が私に押されて少し傾いたけれど、クニはすぐに整える。下からクニの顔を見上げようとしたら、私はまた叫びたくなってしまった。クニが、懐中電灯を消したのだ。視界が真っ暗に染まる。

「おい、おい、なにやってんだ?」
「そんなことしても、俺たちには見えてるぞ、暗闇には慣れてるんだ」

 嘲笑が暗闇の中で回転していく。四方八方から色々な声質が重なって聞こえるのに、皆が何を言っているのかはっきりとわかるのが不気味だった。姿だけが見えない。真っ黒な焼死体のような影の塊は幾つも私たちの周りを取り囲んでいるようなイメージが頭に浮かんで離れなかった。腕を掴む力を強めた。

「クニ、これ、なんなの」
 声が震えているのが自分でもわかった。
「この国の、隠してる部分だよ。週刊誌がたまに取り上げてるの、みたことない?」
 クニは通る声で吐き捨てるように言った。その迷いのなさに、彼がこの普通じゃない出来事の概要を知っていてここに来たことがわかった。

「ジョウトで夢を追いかけていたけれど失敗を繰り返して、何もかもが嫌になってしまった人が、こういう目立たない場所で暮らしてるんだ。というよりは、暮らすように政府に指示されてると言ったほうが良い」
 顔は見えないけれど、クニはつらつらと感情を出さずに言葉を続けていく。
「勿論ジョウトで失敗しても、アントに行けば暮らしていけるよ。それくらいこの国はうまくまわってる。でもこの人たちは、プライドが捨てられなかった。ジョウトを憎み、アントを馬鹿にする。でもそれだと、国が困る。なんせ、絶対的な景気の良さと国民の幸福度を売りにしてるんだから。だから、生活を援助することを条件に彼らは身柄を隠される。何もすることなく、ただ生きてる。ここにいるのは、『無』そのものと言っていい存在だよ」
 ぽちゃ、と何処かで水が落ちる音が聞こえた。見えない影たちが気味の悪い掠れた声を漏らす。今の私にとってはクニも影も、同じくらい恐いかもしれない、と考えていた。

「おい、おい、うるさいねえ。でけえ夢すら持ったことねえ奴等がさあ」
「そもそも、カカシが何を偉そうに喋ってんの」
「うひゃ、うひゃ、隣の女は農家の娘かなにかか?」

 周りが同調を示すように蠢く。私は唇を噛みしめた。暗闇の中で、クニがどんな顔をしているのかわからないのが救いのような気がした。

 クニには、片足がない。小学生のときの交通事故が原因だった。でもそれをこんなに直接的に馬鹿にされたことなんて、私の知る限りなかったと思う。それは私たちの周りに穏やかな人々しかいないからだ。それにクニに片足があったって、なくたって、きっと変わらないと私は思う。クニはなんだって一人でこなせる。それも、人並みどころか人以上に。それは積み重ねた努力による結果だった。しかしクニは、その努力を人に見せようとしなかった。だからあまり親しくない人は、元から何もかもそれなりにできる人なのだと思っているだろう。まるで水面下でもがく白鳥みたいだ。そんなクニが、このトンネルの秘密を全て元々知っていたとして。はたしてこんな風に汚い言葉を浴びせられることもわかっていたのだろうか、とか。考えれば考えるほど、悲しくて仕方なくなった。少し普通じゃないことが起きたくらいで、私はこんなに壊れそうになってしまうのだなと思った。

「普通以下の存在が、普通を愛してるなんて御伽噺にもなりゃしないなあ」
「俺たちの方がよっぽどマシだぜ。なんてったって、足がある」

 ひゃっひゃっひゃっひゃ……下品な笑い声が共鳴して、空間が曲がったような気がした。私はどうしてここにいるんだろう。クニも、どうしてここに来たんだろう。頭痛が細かい波のように襲ってきた。視界が渦を巻いてきたとき、クニが口を開いた。

「ナギ、今日は変なことに巻き込んじゃってごめんね」
 クニは何も聞こえていないみたいに、私に話しかける。
「一度ここを見ておきたかったんだ。自分にけじめをつけたくてさ。ちゃんと確認できてよかった」
 もう帰ろう。
 悲鳴や怒号の中で、私とクニの声がやっと重なった。しかし同じ言葉を呟いたのにも関わらず、それはなんだか全く違う意味を持っているようにも思えた。
 唸るような声が響く中を、二人で駆け抜けた。クニの松葉杖がどう動いているかわからないけれど、間違いなく普通の人と同じ、いやそれよりも早く走ることができていた。来た道を真っ直ぐ戻っているはずなのに、途中で三百六十度視界が回ったようにも思えたし、右や左に曲がったような感覚もあった。それに、どのくらいの時間走ったのかですら、よくわからない。外の冷えた風が顔にかかって、やっと久しぶりに息をした気がした。自分の体の中で、寒さと暑さが打ち消しあっていた。先に息を整えたクニが小さく咳をしたとき、私はざわつく胸を押さえるために目を瞑った。

「僕ね、ジョウトに行きたいんだ」
 なんとなくわかっていたことだったからこそ、あまり聞きたくなかった。クニが私に進路の話を全くしてくれないことが気になっていた。そしてさっきの出来事で、予感が確信により近づいた。私は唾液を搾り出すように、無理やり問いかける。
「クニは、今のままは嫌なの? 普通が、嫌い?」
「僕は普通が好きだよ」
「じゃあ、なんで?」
 クニは、これを言わなくてはいけないんだな、と言いたげに肩を軽く落として、息を吐いた。

「僕はこの街が普通だなんて、思ったことがないよ」
 雑草の上に積もった雪の欠片がばさりと落ちた。クニはいつもの馴染みやすい笑顔を見せており、肘は松葉杖の後ろに隠すようにだらりと置かれていた。
「皆、普通じゃ背負わないようなものを自主的に背負ってる。僕の脚が無くなった次の日、本当に驚いた。何も変わらないんだ。君も、親も、他の人たちも。自分が夢でも見ていたのだろうかと思って下を向いても、やっぱり現実だ。僕の脚はそこに無い。納得がいかないのは僕だけだった。一人で勝手にかっとなって、必死で自分が納得するまで色んな努力を重ねたつもりだ。ナギはそれを知っているよね?」
 私はこくん、とただ頷くことしかできない。クニがこんなに強い目をすることを私は知らなかった。
「でも、自分が納得したとしてもこの街にいる以上変わらないんだ。僕は臆病だから、普通に生きたいんだよ。やりたいことをして、努力を重ねて、結果を目にして、喜んだり悲しくなったり。そんな普通のことを繰り返したい。罵倒や差別されることだって、あったっていい。寧ろ僕が普通であるためには、必要なことなんだ。でも今僕の周りに、それを当たり前にできる場所はない。皆が安定のために色んなことにを知らないフリして生きているのって、普通じゃないと僕は思う」
「……でも、私は、そんな、」
 クニの片足については、特に意識したことはなかっただけだ。知らないフリなんてしていない。言いたいことが喉で全てつかえてしまって何も言えなくなった。そんな私をあやすように、クニが手を優しく握る。
「とりあえず、今日具体的な目標はできた。このトンネルみたいな場所を、国から消すことだ。政府が隠したいものをわざわざ探って消すなんて、少なくともジョウトに行かなきゃできないことだろ? 僕は本当の普通を手に入れるために、行きたいし、生きたい」
 そう言ってクニは肘と顔でトンネルを指し示した。目をしならせたその表情は、明るいとも暗いとも取れない。
「ねえなんで、懐中電灯を消したの? そもそもなんで、私と一緒にここに来たの?」
 私はぽつりぽつりと子どものように、ただ聞くことしかできない。
「ナギが姿を見てしまったら怖がると思ったからだよ。でも、どうしても二人で来たかったんだ。そして知らせたかった。ナギのこと、信頼してるから」
 そう言ったクニはいつもと変わらないクニだった。私は馬鹿のようにただ黙って、聞いていた。見えないものの美しさを私に説いてくれたクニが、今度はこの国の見えない部分を解き明かそうとしている。それだけがなんとなくわかっていた。私は目の前にいるクニが消えてしまわないように、願掛けのつもりで瞬きを我慢し続けてみた。しかし次の日には、もうすでにクニの引越しの日が決まっていることを知った。



 薄水色の便箋が、夏の日のプールと冬の日のクニのマフラーを連想させた。私はクニが引っ越してから、あの二つの出来事を何度も頭の中で反芻し続けているのだった。私は普通の大学生になった。そしてクニは今、ジョウトで法律を学んでいるらしい、彼のお母さんからそれとなく聞いた。私が全てを知るよりもずっと前から、クニはやっぱり私に隠れて全ての準備を進めていたのだった。
 通学途中の電車や大学構内でよく、クニに似た雰囲気の人を見かける。でも、本当は、全く似ていないのもわかっている。クニに似ている人なんて、この街にいない。わかっているのに、クニがいなくなってから私は、彼に重なる人を無意識のうちに探してしまうようになった。私がクニに抱いていた憧れは、映画や漫画で取り込むような現実離れしたものに対するそれだったのかもしれない。私は普通に生きることが何より楽しいと思っていたが、本当は、クニという特別な存在が私の安定した日常に丁度良くスパイスを与えていたのではないだろうか。だからこそ私はそれを失った途端に、ぽっかり穴があいて、今全てが面白くなくなってしまったのではないだろうか。

「ナギ、僕はこの街が普通だなんて、思ったことがないよ」
 クニの言葉が、諦めきったような表情が。ずっと頭に流れ続けていた。
 それでもやっぱり、私はこの街が、私自身が、普通だと思っている。
 普通じゃないのはクニの方だ。だってクニは、行ってしまったじゃないか。私にとってクニがいること、それが普通だったのに、壊したじゃないか。私は普通の人間だからこんなに簡単に寂しくなるし、とどかないものに憧れるけど行動には移さない。何よりも、怖いからだ。地面に足をつけずに宙に浮かんでいることが、怖い。でも、憧れ続けていたいし、ちょっとだけ仲間に入りたいとも思う。我侭なのかもしれないけれど、はたしてこれ以上に一般的な思考があるのか。それなのに、そんな考えは安定し尽くしている世界にも、上を目指す世界にも、当てはまらない気がしてきた。あのときクニが言っていたことが少しわかるようになってきたのだ。何もかもが極端で、泣きたくなる。その狭間で程ほどに生きるには、一体どうしたらいいのか。もしも私が生まれるずっとずっと昔のように、安定志向と上昇志向が共存していて、はっきりとした境目がなかったなら。私はどんな風に日々を考え、過ごしていたのだろう。繰り返し考えてみたけれど、安定した生き方しか知らない私には想像することすらできなかった。ただ変わらないのは、クニはもうここには帰ってこないし、私はここから出ることもないだろうという事実だ。

 歩道の脇から飛び出した梅の枝に、私のカーディガンの袖が引っかかって解れた。空中に浮遊した糸が春の陽気に照らされるのを見る。今日もまた、同じような日が過ぎていく。交差点で足を止めて、見渡した。サラリーマン。主婦。子ども。私。程々に生きていたとしても、それぞれが違う個性を持っている。クニはそう言ったけれど、果たして本当にそうなのだろうか。クニには確かに個性があったと思う。でも、私は? この街は? クニがいなくなってしまってから、私はそんなことばかり考えてしまうのだ。信号が青になって、皆が一斉に動き出す。生まれながらの腐乱しない死体が、今日を歩いていく。



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