【小説】人光浴
守村君の体は、淡い緑色をしていた。それは蛍光色だった。夜になると、部屋の電球が必要にならないくらいの光を放つ。守村君の肩から肘にかけての細くて折れてしまいそうな二の腕や、私の手首と同じくらいの足首や、針のような指。普段は遠慮がちに関節一つ一つに収まっているそれら、皮膚のあるパーツのすべてが夜には堂々と輝くのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
八畳の隅に置かれたベッドの中に、守村君がいる。私と守村君は毎朝七時に、無機質な挨拶を交わす。それ以上もそれ以下も、必要がない。そこは、この家のリビングにあたる部屋だ。毎朝、隣の部屋から起きてきた私のドアを開ける音で、守村君も目覚める。それがこの家の、めったに狂うことのないリズムだ。私は冷蔵庫から卵とベーコンを取り出して、朝食の準備を始める。守村君は軽く欠伸をしてから、眠そうに目を擦った。
「夢を見ました」
「ふうん、どんな夢?」
「大勢の人の並ぶ列が、幾つもありました。先頭には白くて四角い箱が置かれていて、それから一枚ずつ、くじを引いていくんです。ずっと待っていたら僕の順番が来ました。三角に折られたくじを開くと、中央に赤い点がありました。僕は、何かに当たったみたいです。そこで目覚めてしまったので、何に当たったのかは、わかりませんでしたけど」
卵とベーコンがじゅうと油で滑って、気持ち良さそうに焼けていく。フライパンと守村君を交互に見て、朝の露がグラスに溜まっていくような感覚を抱きしめる。
「なんだか、縁起が良さそうね」
「でも、夢の中に出ると良いものの大抵が、現実だと悪いものだって聞いたことがあります。逆もしかりで、死ぬ夢とかって、良いらしいですよ」
そうなんだ、と相槌をうちながら、ベーコンエッグを皿に盛り付けて守村君に渡す。続けて自分の分もよそって、ベッドの前の低い丸テーブルに置く。そして私はいつものように座布団をベッドの脇から引っ張り出し、座った。
「いただきます」
「いただきます、毎朝ありがとうございます」
「だからって、本当に毎朝言わなくてもいいのに」
笑いながらベーコンをフォークでつつくと、守村君も笑う。冬の寒い朝で、私は暖かいスウェットを着ているが、守村君は上下共に丈が短い、白い服を着ている。それは一年中ずっとそうで、私の希望でもあった。彼の美しい光る体を必要以上に隠す布など、必要ないと思う。最初の冬は私も、守村君の体を気遣って常に暖房をつけて生活していた。しかしある日守村君に、必要がないと言われてからはそれもやめてしまった。それでも守村君がつけたくなったらつけられるよう、枕元には常にリモコンが置いてある。しかし守村君は、寒さも暑さも特に強くは感じないと言って、決して自ら操作するようなことはしなかった。気がついた頃にはそのエアコンは、私の判断でしか使用されない物になっていた。
朝食を食べ終わると、私はすぐに台所で食器を洗う。その後はスーツに着替えて、簡単に化粧をして髪を整える。そして朝の仕上げとばかりに、図書館から借りてきた本を三冊、守村君の枕元に積んだ。
「なにかあったら、連絡ね」
「それも、毎朝言わなくてもいいのに。うん、いってらっしゃい」
ハイヒールの先まで足を詰め込んで、ドアを開ける。いってきます。そう急いで言った言葉は、ドアの閉まる音で消えてしまっただろうか。
守村君は、立って歩くことができない。トイレやお風呂には、いつも私が肩を貸して、一緒に向かう。しかし私だけがトイレに行きたい時でも、守村君を連れて行く。それが真夜中だろうと、起こして一緒に行く。それは、私だけが守村君のために動いているのではないという証拠だ。守村君は私に頼るし、私だって守村君に頼る。トイレだってお風呂だって、私たちの生活の中では一緒に向かう場所として存在するのだ。私はたまに独り言のように、そう口に出してみたくなる。
守村君と一緒に住み始めてから、二年余り経った。平日は私が仕事に行って、守村君は本を読んだ。休日は私も本を読んだり、守村君と一晩語らったりもした。理想郷についてだとか、目玉焼きにかけるものの選択肢を全て羅列してみたりだとか、どんなにくだらないことであろうとお互いの考えていることを一つ一つ、丁寧に文章にしては相手に投げる努力を怠らなかった。またあるときには、色々な種類の絵の具を買ってきて、窓から見える夕焼けの色を表現しようとしたりした。
忘れられないのは、友人がスイスへ旅行に出掛けることになり、ペットのカメレオンを数日間家で預かったときの話だ。小型で飼いならしやすい種類のカメレオンで、凄く愛らしかった。夜に飼育ケースからこっそり出して散歩をさせてやると、カメレオンは見慣れない空間を把握しようと懸命に目をぐりぐりと回した。そしてフローリングの上を歩かせてやると、ゆっくりと体を茶色っぽく染めた。それを見て守村君は、凄い。と生まれたての赤ん坊のようにきらきらと笑ったので、私もなんだか凄く嬉しくなる。カメレオンはよく誤解されているが、周りの色にころころ擬態するわけではなく、警戒心によっても色が変わる。絵本に出てくるような、瞬間的に色を変えていくカメレオンなどいないことはわかっていた。しかし、カメレオンはそのままゆっくりと、守村君の腕に自ら寄り乗うので、今度は私があっ、と声を上げてしまった。カメレオンは守村君に擬態しようと、飼育ケースの葉っぱの色よりもさらに薄い、若苗のような色になっていくことを望んでいるように、じっと動かなくなった。さらに、色を似せるだけではまだ不十分であると考え、守村君のように光ろうとしてずっと踏ん張っているのだろうと私は思った。そのカメレオンの姿は、どんな図鑑やペットショップで見たものよりも綺麗だった。私も守村君もえらく興奮してしまって、何度も写真に撮ろうと試してはみたが、肉眼に写る完成された姿そのものが写真に写ることはなかった。
毎日がそうやって、薄い布を重ねていくように過ぎた。私は時々仕事で嫌なことがあった、と感情的になっては、泣いたり愚痴を吐き出したりした。それに対して守村君は、いつも穏やかだった。
「僕が立って歩く姿って想像できないでしょう? 世界の概念の中で、僕は立って歩かない生き物なんだ。そういう決まりなんだから、悲しくもなんともない」
いつだったか、確か同棲し始めた頃、守村君が自分の障害についてそう言っていたことがあった。この時を含め、守村君が怒りや悲しみ、そういった負の感情を必要以上に出した記憶というのが、私にはない。
「ただいま」
夕方、仕事から帰った私は玄関のドアを開ける。守村君の体は、沈みかける太陽をバックにぼうっと光り始めていた。私に気づくと、はっとして素早く顔を上げ、目を見開いた。そんな守村君が可笑しくて、私はくすくす笑った。
「珍しいわね、眠っていたの?」
「はい、本を読み終えてしまって」
枕元に目を見やると、確かに朝に手渡した文庫本が窮屈そうに積まれていた。また違う本を、図書館から借りて来なければ。そう思っていると、守村君が静かに口を開いた。
「朝見た夢の続きを、見ました」
私は何も言わずに、皺にならないよう気をつけながらスーツのままベッドに腰掛け、守村君を見た。守村君も私の方へ体を向け、ゆっくりと息を吐いた。
「くじの中心に赤い点が付いていた人は、僕以外にも沢山いました。それに、緑の点や、青い点、様々な種類があったみたいです。あのくじは、全てが当たりくじだったみたいなんです。というよりは、グループ分けのくじだったんです。僕を含め、赤い点が付いていた人は皆、一つの部屋に集められて説明を受けました。その説明は、とんでもない内容だったはずなんですが、あまりにも短かったので重みを少しも感じませんでした。不思議とただ、ああ、そうなのか。としか思えませんでした。その後は一人ずつ、注射をされました。その時僕は、自分の腕を見たんです。僕の腕は、少し日焼けをしてはいるものの、普通の肌色をしていました。しかしその注射を受けるとすぐに全身が緑染みていきました。しかし、僕はそれどころではありませんでした。体中の細胞が騒ぐような心地がして、体は熱く、脳は二つに割れそうに痛みました。倒れそうになる体を支えられて、手術室のような所に運ばれました。その後僕は意識を無くして、ふと気が付くと、世界の何もかもが穏やかに感じました。そこで夢から目覚めて、僕の脳に色々な記憶が廻りました。……前々から、僕の記憶は、たまにはっきりしないところがあるな、と思ったことがありました。でも、それは小さい頃に足を悪くして、一生歩けなくなるというショックから記憶を無くしてしまったんだ、と聞かされていました。でも、思い出してしまいました。それは僕というモノ自体の、設定にすぎなかったんだ。僕の足は、意図的に悪くされたんですね。そして僕の記憶は、消されたんですね」
守村君は淡々と語っていた。私は左手の爪先をじっくりと眺めて、この誤作動の対処法を考えていた。
人体物質化実験とかヒューマシングとか、もう少し長くて難しそうだったかもしれないが、確かそういう風に呼ばれていたように思う。極悪犯とか親のお金を喰らうだけのニートとか、所謂社会不適合者を無くすべく政府が考案した。そうして社会不適合者は、人間ですらなくなった。電気、火、鞄、椅子。何にだってなった。これは科学的な面においても法律的な面においても、とてつもなく異質なはずだった。何をどうして作っているのかとか費用とか、そういった現実的な問題は、確か技術が特許を取得した後のニュースで繰り返し説明していた気がする。なんだか小難しい単語を腐るほど使っていたが、私には理解できた記憶がない。しかし、パソコンだってスマートフォンだって、その中身をよく知らないのと同じように、原理は理解できなくとも実際に使うことなら簡単にできた。少し、自分の頭の中にある人間の定義というやつを変えてしまうだけで良かったのだ。暮らしに寂しさを感じている老人や、未婚で一人暮らしの層を中心にそれは余りにも容易く、世間に受け入れられていった。反対する団体は未だに存在はしているが、本当にただ存在しているというだけのものだ。
人間は元々恒温動物などではなく、カメレオンなどと一緒の、変温動物だったのではないかと私は思う。最初は考えられないものだったとしてもすぐに馴染んで、すぐに受け入れる。今、私が過去にどういう人間だったかも知らない守村君を所有しているのは、私が守村君を必要としたからだ。自身の男性恐怖症を和らげるための道具として医者に薦められたからだ。家から電球を取り除き、男性電気機具を設置する。こうして生活の一部に男性を取り入れることによって、男性に触れ、話さざるを得ない環境を作る。それも、本当の男性ではなくただの無機物であるから、自ずと慣れていく。これは私にとっても凄く効果的な、流行中の治療法だった。
「僕がこの部屋にいるのは、僕が蛍光灯だからなんですね」
僕がいないとこの部屋が暗くなるんですね。そう続けた言葉は、守村君が言いそうにない、横柄な冗談のようにも捉えられたし、勿論文字通りの意味でも通じた。それに実際、どちらの意味でも正しかった。
「蛍光するものを携行する、そういう傾向…なんて文句で、CMがやっていたのよ、すこし前に」
あえて守村君のそれを冗談と捉えて、冗談で返すようにそう言うと、守村君は少しの間、頭の中で変換作業を行っていた。それを終えると、全てを悟るように頷いた。私だってよくわかっていないのに、それに何も今の状況を説明してなんていないのに、守村君は一瞬で理解したんだろうか。それとも、考える必要などないと思っているんだろうか。私は、落ち着かなくなって、そんなこと聞きたくもないのに、なぜか口を開いてしまう。
「守村君、悔しい? それとも、悲しい?」
「いえ、特に何も感じません」
朝、あなたと話していたときと同じような気分です。そう言って顎を軽く掴む守村君の瞳を、改めてゆっくり見つめた。真っ直ぐな瞳が自然の光を放ち、私を焼くように貫いていた。
守村君は、いつも穏やかだ。それはそういう風に、守村君の体が定められているからだ。守村君が何に対しても怒らないのも、さらに言えば寒さや暑さを感じないのも、全て私に都合が良いように作られたモノだからだ。それだけじゃない、守村君が立って歩くことができないのは電球が勝手に動いたら困るから。私が守村君とトイレやお風呂に入る理由は、トイレにもお風呂にも電球は無ければいけないから。トイレとお風呂は一緒に入るのに、私が一人で別の部屋で寝ている理由は、眠るときには暗くなければいけないから。このように、本当に全てがそうだ。説明するのが馬鹿らしくなるくらい、私に都合が良いようにこの生活はまわっている。人のようなモノが増えたからといって、関係ない。電球は、電球以外になってはいけない。
「世界の概念の中で守村君は、何も感じないし立って歩けない生き物なの。そういう決まりなのよ」
何処かで聞いたことのある台詞が、つらりと口から出ていった。守村君は怒らないから、私は何も気を遣わずにこんなことが言える。その利便性が、身に染み入っていくのを止める術が、私にはわからない。
夜がゆっくりと更けてきて、少し強い風が窓をかたかた鳴らす。全てを混ぜ合わせてしまうような闇が目の端に吸い付いてくる。守村君は色々なことを思考しては飲み込んで、を繰り返していたかと思うと、体勢を軽く整えた。ベッドが古い音を立てて軋んだ。
「僕は例えば、死ぬということはあるのでしょうか」
守村君はぽつりぽつりと消えそうな、いつも通りの声の調子で尋ねる。
「寿命はあるみたい」
「そうですか」
「五年くらいって、聞かされたわ。死ぬっていうか、消えていくみたい。光が段々弱くなって最後には消えて、意識を無くすんだって。昔流行った、カラフルな羽毛のひよこってわかる? ああいうのって、本来塗るべきじゃないものを体に塗られたために、寿命が圧倒的に短くなるのよね。それと一緒」
一緒。守村君は確認するように唱えて、頷いた。
「そして消えてしまったら、市に連絡して引き取ってもらって次のを買うか、往来の電球を買うかのどちらかなのよ」
私は男性恐怖症が治りかけているから、守村君が消えたら普通の電球を買うかもしれないわ。そう続けかけた言葉は、ひき返すように喉に詰まった。躊躇など必要ないはずだったが、なんとなくそのまま飲み込んでしまった。それはきっと、この言葉が私の本心かどうか、よくわからなかったから。それか、守村君が返答ではなく独り言を呟いたから、そのどちらかだ。
「花火みたいに、空に上がるならいいのになあ」
私はその独り言が意図することがよくわからず、首を傾げた。すると守村君は手を大きく広げて、花火の真似をして見せた。
「消えるときの話です。せっかく光る体なんだから、最後は堂々と光ってから散ってみたい。花火みたいに」
花火みたいに。今度は二人で揃って、そう唱えた。まあ花火は火だから、僕とは光の種類自体が違うけれど。そう続けて守村君は笑った。その時私は、守村君がもし急に立ち上がって私にナイフを向けたら、どんなに良いのだろうかと思っていた。しかし守村君はやっぱりただ黙って、私を見ているだけだった。守村君の体は、泣きたくなるくらい綺麗だ。日光に良く照らされた葉のような緑色をしている。この体が空に上がったら、どんなに綺麗なのだろう。私は想像する。頬に冷たい物を感じたと思うと、喉からは嗚咽が漏れていた。
「何故泣いているんですか」
「悔しいし、悲しいから」
「あなたにとっては、いつも通りの夜なはずですよ」
私はもう守村君と目を合わせることができなかった。守村君の光だけが私を相変わらず優しく照らしているのがわかった。それは蛍のように、ゆらゆらと静かに動いていた。私はそれから逃げるように隣の部屋のドアを急いで開けて、ベッドに飛び込んで布団をかぶる。暗闇が私の目に徐々に馴染んで、守村君の光の残像を消していった。私は夜の帳が下りきった世界に取り残された、どうにもならない真っ黒な生き物になっていた。
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