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当事者のことばは何故暴力性を孕むのか

当事者のことばが重要視されている昨今。

「経験もしていないのに、偉そうに言うな」という言葉を各所で聞く。
また、「当事者の意見を聞け!」という怒号のような、叫びのような声も聴く。
ある時は被災地の現場で。またあるときは、支援の現場で。
被害を受けている、苦しんでいる俺たちの実態を知ってくれ!そのうえでものを言ってくれ。
声や主語の大小はあれど、このような言説が折衝などの場で使われることは珍しくはない。

ここで、少し横道にそれ、当事者の自信について考えていく。
当事者が自信を持つとき。それはその本人、内部からこみあげてくるものだと私は思う。
ただ、問題はそのきっかけがどこから来るか、だ。
外部からの付与では、その人は鎧を身に着けてしまう。
内部から湧き出たものきっかけでは、その人は筋肉を身に着ける。

自己肯定感という言葉はもはや市民権を得たどころか、大手を振って往来を闊歩するまでになった。
この自己肯定感という言葉そのものに、自分はかなり疑問を持っている。
この言葉が流布してしまったが故に、個々の悩みや苦しみが「自分は自己肯定感が低い」とか「最近の若者は自己肯定感が低い」という、程度問題として認識されてしまっているのではないだろうか。「自己肯定感が低い自分の人生は生きづらい」という言葉まで生まれる始末。実際にそういった言葉を残して自死していく人たちもいるから、咎められない。
そして、自己肯定感を高めることで、自分に自信がつく、と誤解してしまったり、自己肯定感が低い自分は何をやっても駄目だ、と自分の悩みに対する答えの責任をその言葉に載せてしまってはいないだろうか。
自己肯定感を高めるにはどうしたらいいだろう、というおかしな問いになり、そこからさらに「こうすると自己肯定感を高められます」みたいな本が出てくる。
それらの本の著者は、精神科医しかり、または「かつてor現在も自己肯定感が低いと思っているけど、なんとか生きている当事者」であったりもする。

当事者は他者に話を聞いてもらうことで、自分に自信がつき、自己肯定感があがっていく。
臨床の場ではそれは治療やカウンセリングの一環であったり、愚痴を言ってすっきりするという場面であったり、そういう意味合いであればこの一文は意味があるのではないか。
だが、ここで疑問である。本当に“自己肯定感を高めていく”と自分に自信がつくのだろうか。
成功体験を積み上げ、自分のことばが今まで嫌っていた世間様、社会、周囲の人たちに“理解された”と思ったその先は生きやすい人生なのだろうか。

まず、誰が門戸を開くのだろうか。
家や職場とは違う第三の居場所だろうか。
ありのままの自分をすべての受け入れてくれる人だろうか。
自分自身のことを理解しようしない人はダメなのだろうか。
人を理解しようとし続ける人が良いのだろうか。
「理解してほしい」「受け入れてほしい」という想いと、それを出す言葉や行動はドンドン膨れ上がり、拡大していく。拡張していく。

では、当事者のことばを聞かなくても良いのだろうか。
それは半分あたりで、半分外れなのだと思う。
暫定的な答えとしては、聞く側にとって非常に難しいが、当事者のことばに「感動をしないこと」だろうと思う。

当事者のことばは性質上、感動を生み出しやすい。
心を動かしやすい。

感動はレバレッジが効いてしまう。感動は感動を呼んでしまう。
感情を誘発、誘爆させてしまう。時には、事実が誇張されて認識されてしまう。
そのことを当事者が意図的に利用することもできてしまう。

当事者のことばを聞いた人たちの感動そのものが、当事者のその後を変動させてしまう。
感動されてしまうと当事者は自分のことばで人を感動させた、という想いを得てしまう。自分のことばはあくまで一人の人間が体験した主観の情報である、ということを本人も認識しなければ感動の魔物に呑まれてしまう。

では、当事者のことばの性質について大事にしなければならないのは誰か。話す側か、聴く側か。それとも…他の第三者か。
例えば、散々「私の話を聞いてほしい」と言い、夜中でも構わずテキストメッセージを送る当事者がいるとする。
自分のことをわかってほしい。
発信する当事者が思うのは、その一心。その一心しかない。
この言葉を、今、この方法で、この人に、このように伝えたらどうなるか、というところまで考えることはできない。
夜にひたすら自己反省を行い、「私が考える現実」との矛盾に苦しみ、悪循環に入り、今にも死んでしまいそうなぐらい辛い気持ち。
言葉にはなるけど、声にはならない叫びの発散場所を、排せつ先を、どこに求めるのか。
この時、当事者の気持ちが向くのは、人、ではない。
排せつ先なのだ。
そこで言う。吐き捨てる。
相手がなだめようと、なぐさめようと、寄り添う姿勢を必死で見せようと。
「経験者でしかわからないでしょ」と最後に付け加える。
排せつして、すっきりして、朝になり、「昨日はごめんなさい」と謝罪する。
その謝罪はなんのためか。冷静になったとき、何故その言葉を出すのか。自分が嫌われたくないからか。
そうして、当事者はまた一人、自分を理解してくれる人を失う。
そうして、また新たな排せつ先を探す。
自分のすべてを受け入れてくれると信じ続けられる先を探す。
「自分は誰にも理解されない」という呪いを背負いながら。

では、その言葉を当事者、あるいは経験者だったら聞いてくれるだろうか。
最初は聞いてくれる可能性が高いと思う。
かつて自分が経験した苦しみだ。
寄り添いたい。かつての自分だったら寄り添って欲しかった。
そういう想いがある当事者の場合は、聴いてくれるだろう。
だけど、それはどのぐらい長く続くだろうか。
数週間、数ヶ月、数年。
聞いてるほうはうんざりしてくる。
「自分を受け入れて欲しい」は沼なのだ。
ただの沼。
既読無視が続き、電話に出ない日が増え、やがて既読もつかなくなる。
話してる方は「ああ、また私を受け入れてくれなかった」と勝手にショックを受ける。
その「繰り返し」。

そしてこの一連こそが、「当事者の暴力性」だ。
当人は暴力を振るってるとは露ほども思わない。ただ「受け入れて欲しい」という想いをもっている「だけ」だと思い込んでいるから。
そこには「私は孤独ではある」という仮定が、根底として存在する。

この「私は孤独である」を如何にズラすか。
その感覚を多くない失敗の中で学び、再起しない限り、無意識の暴力性をもつ当事者はいつまで経っても救われない。

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