黒歴史か白歴史かは、私が決める!
つらい経験や生きづらさに
「誰かの役に立てるからいいじゃん」「いつか『いい経験だった』て思えるよ」
といった言葉が「定型文」のように返されるの
ギモンに思ったこと、ありませんか?
なんとなく私も、「いつか」「財産になる」し「役に立つ」のであろう、
それが普通だし世の中の定理なんだろうなーと想像していました。
ですが、ちょっとだけ鬱を経験したあと
知人に「それで人を助けられるから、いい経験だね」と言われて
ちょっと待って??それ、私が決めることじゃない?
と思ったんです。
定型文を「言われる当事者」になって、
この言葉は「私」が存在していないこと・主導権がないことのように感じて、違和感を覚えました。
だって、
何かや誰かの役に立つようにアレンジしようと思えるか/or not
思ったとしてそれを実行してみるか/or not
実行の結果、貢献実感が持てるか/or not
こういう段階を経て、過去のつらい経験についての解釈をアップデートできるわけじゃないですか。
もしくは、何か別のかたちで
「つらい」「苦しい」「悲しい」から「必要な経験だった」「いいことだった」へ
見方のベクトルを変更するきっかけや経験の積み重ねが必要じゃないですか。
だってずーーーっと「つらい」の中にこもっていることだって、私は選べるんだもん。
つらくて苦しい何かがあったという「事実」は変わらなくて
只中にいるときは見つめることすらこわいのに
こわくておそろしいものを使って幸せを感じられる結果を生む行動を起こしたり
見つめて考えて癒して「これはいいものだ」と思える見方に至るのは
簡単なことでもすぐできることでも誰でもできることでも、ないはずです。
もちろん、知人も簡単な気持ちではなく、励ますため・気を紛らわせてくれるつもりで
そして温かい気持ちで、その言葉を私に投げかけてくれていたことはよくわかっています。
ただ、どう解釈するか、そのタイミングがいつかは、私だけが私に示してあげられるものなんじゃないかと、その時頭の中でギモンのアラートが鳴ったんです。
繰り返しますが、
ほんとにいやで苦しくてつらくてもう考えるのも嫌だ!と思い続けて
悲しさや生きづらさを抱えながら生きることだって、全然選べるんです。
そっちを選ぶことが不正解でもないし。
「いい経験をした」と解釈することを選べるだけの主体性と自己受容が
その経験において私の中に戻ってきたとき(私が私に戻していってあげられたとき)初めて
暗黒の歴史が強くて優しい未来に変わるから。
だから「いつか」の鍵は私だし
「いい経験」かどうかはいつだって、私が決めているもの。
これは必要でいいものだったと、私の口からあなたに話せたときに
その時の私に
がんばったね。すてきなことだね。と、笑顔であなたに、言ってもらいたいのです。
読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!