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「思いやり」と「私がしてほしかったこと」の違いって?

共感性が高かったり繊細だったりする人ほど
「自分がしてほしかったこと」を他人にしてあげようとする傾向があるなと思う。
もしくは、
「自分がされたくなかったこと」を自分に禁止して、制限して、
他人と接しようとしてるんじゃないかなって。

自分がされて傷ついたから、嫌だったから、本当はこうしてほしかったから、でも言えなかったから、
してほしかった接し方を相手にしようとする。
それを相手も望んでるんだって思うから。

「自分がされて嬉しいことを相手にしよう」
「自分がされて嫌な事は相手にもしちゃいけない」
よく聞く話だけど、嬉しいことも嫌なことも、人によって感度もベクトルも全然違う。
私が言われてすごくつらいと感じる物言いがあったとして
同じ風に私が相手に言って相手は「そうなんだな」としか思わないかもしれない。
私だったらこうされたかった、と思う接し方を他人にして
必ずしも全員がそれを喜ぶとは限らない。

「他人のことを思いやって」「相手の心を察して」ってまるで正解があるみたいに世の中では言われるけど
思いやることに自分のフィルタをはさんでしまう以上、
エゴが含まれていることを、繊細である私たちはもっと知らないといけないのかもしれない。
「こういう言動は相手を傷つけるに違いない」という思いは
共感性が高くて色んな感情に気付いてしまう私と、繊細ゆえに傷つきやすい(でもそのこと自体をあまり共感してもらえない)私の
両方の思いが含まれてる。
相手の真実ではない私の思い込みや予測、私のうれしさと他人のうれしさを同一視する視線。
そういうものを、きっと含んでる。

それが悪いわけじゃ全然ない。
分かる人にしか分からない大切な感覚だと思うし
だからこそ相手に対してできることがたくさんある。

ただ、私がされて嫌だったことを嫌だって言えずに膿んでいった心の一部
他人に何かしてあげる、他人にすることを禁止することで取り返そうとしたり、自分を守れているように感じていないか
時々立ち止まってみるといいのかなって思う。

思いやりみたいなものって、
嫌なことを嫌だって伝えられる自分でいることの先にあるし
伝わる言い方を私が選べるということの先にあるし
もし失敗しても取り返せる関係性の上にあるものだと思う。

ともすると消極的に選んできて、習慣になってしまった「相手を慮った言動」は
本当に相手のためなのか、それとも自分のためなのか。
もし自分のためなのだとしたら、本当の意味で自分を大切にすることから
スタートしたらいいんじゃないか。
「傷つかないために」じゃなくて「気分よくいるために」を選んだら
未来が少し、変わるんじゃないか。

そういうことを、時々はたと自分の言動に思ったりします。

#note #コラム #自己肯定感 #思いやり #傷つく #HSP

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