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「何にも期待しない」は絶望ではなかった

誰かにイラっとしたり怒りを感じたりするのは二次的な感情で、
私が勝手に相手に期待をして、それがかなわなかったからわいてくるものだと気付いてから、
いかに誰にも、何にも、期待しないようにしようかというのが、
どこか「目標」「理想」のようになっていた気がする。

「悲しい」は私てきには一次感情だなと思うけど、
誰かに「分かってもらえなかった」「察してもらえなかった」「受け止めてもらえなかった」とかが理由の悲しみは
自分勝手な期待を減らし、自分の言葉で相手に伝える心づもりがないのなら
怒りと同じジャンルに入ってくる。

ただどこかで「誰にも何にも期待しない」というフレーズに
世界に絶望しているようなイメージを添えてしまっていた。
そのせいで、「期待しない」の意味を深く実感・実践できてなかったんだなぁ。
ということに最近気付いた。

きっと、「期待しない」という言葉は
映画や小説や漫画や歌詞や、あらゆる人間の感情を表現する世界で
「傷付いた結果」「絶望の結果」みたいな世界線で使われることが多かったんじゃないかと思う。
(私がそういう印象を多く残してるだけ?)
「しない」が「NO」だから、否定の言葉と感じられるからもあるし、
そこに「誰にも」「何にも」ってついちゃうと、さらに厭世的に見える。

色んな期待を、努力を、裏切られて
ある意味お坊さんのようになった人か感情を捨ててしまおうとした人が使う言葉のようなイメージになっていたと思う。

それって「傷つけられた」の思想から抜けてないのと似てるなって。

私が「傷ついた」はあるけど、誰にも「傷つけられる」ことはない。
自分の外で起きたことに自分で「私はこのことに傷ついたんだな」と気付くことはある。
でも、誰かの言動を私がどう受け止めるかを選べる以上、
(物理的なものを除いて)誰かに「傷つけられる」ってことはありえない。

同じように、期待をしないということは
自分がコントロールできる範囲は自分だけだということをどこまで深く理解しているかとイコールなんだと思う。

期待はなぜするのかというと、相手から自分の求めてる感情や物や何かしら「得なもの」を受け取りたいからで、
それって(無自覚に)相手をコントロールしようとしてるってことだよね。
こうしてくれたら嬉しいのに、こうなったらいいのに、普通はそうするはず、etc...

「期待」通りに事が運べば、自分の心が満たされる。
期待がかなったら、愛を受け取ったような気になったり、幸せになれたような気がする。
(ほんとは、それって幸せを自分で決めれてなくて、自分を誰かの評価にあけわたしてることなんだけど)

それで、期待と、愛や友情みたいなものをごっちゃにすることが習慣になって、
期待「する」ことが人間っぽい、愛のある感情のひとつで、
逆に期待「しない」ことは人間らしさを失った、世界に絶望したもののように思いたいんじゃないかな。
だから、「期待しない」は冷たい感情のように描かれることが多いんじゃないかな。

期待できるのは、自分がコントロールできる範疇だけ。
つまり、本当の意味で自分自身のことだけ。
それ以外は、「意味がない」とか「しょうがない」とかじゃなくて、かなうかかなわないかの選択権の範疇外ということ。

だから、誰にも何にも期待しないというのは、
自分自身が選べることをいかに沢山知っているかだし、相手のそれを侵害しないということでもある。
お互いの範疇を知ってるから、めちゃくちゃ自由だっていう、話。
全然、絶望なんかじゃなかった。

あ。ってことは、自分の期待の範疇を知るってことは
いかに自己受容が進んでいかに自己肯定ができるかってことと繋がっていく話なのかもしれない。

#note #コラム #自己受容 #自己肯定感 #期待 #愛

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