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「変わりたい」はカップ麺よりずっと尊いから

今日スイスイさん(@suisuiayaka)のツイートを読んで、選ばれた単語とイメージにものすごく興味がふくらんだ。

あの世で人生品評会って(笑

このツイート読んだ時にいくつかの考えがふわふわ浮いてきたのね。
(スイスイさんの言いたいことと私が連想したことはスタートが違うので、その点で文脈や意図が違うことがあると思う。ごめんね!)

「人生変わる○○!」「最高の人生に!」「人生終わった」ってどれも
人生がある1点で決まってしまう確定的な因果関係論になっているなーって感じたの。
・これ1個(今ポイント)すればバラ色の将来(長期未来ポイント)
もしくは
・これ1個(今ポイント)してしまったがためにその先全て否定(長期未来ポイント)
って風に私には見える。

なんだけど、「人生」って、抽象的で不明確な単位じゃない?
時間的な長さも、どこからどこを「人生」と位置付けるかも、どういう要素を「人生」としてイメージするかも、
みんな全て条件が違うと思うの。

違うから、品評会とかできないよー。
松の盆栽もぶどうの出来もマグロのサイズもぜーんぶ一緒にマウンティングしあったって
いいよー☆全部すてきだよー♪どれもいいとこあるよねー! ってなるもん。

で、そのすごく抽象的&不明確なふわっとした要素が、今この瞬間で決まりようがないなって改めて思ったの。

普通のアミダの行先ならあるスタートを選んだらゴールも決まっちゃうけど、
「人生」みたいなふわっとしたアミダは、横棒が動き続けてて縦棒も増えたり減ったりし続けてる状況かなって。
だからどれ選んだからって何が確定するとは言えない。
今「最高の人生を!」って一緒にシャンパンで乾杯した人がみんな桐箱入り高級メロンになるのかしら?って話かもねーって思う。

これが、「今 →(影響)→ 人生」はこの今という1点では決まらないのかもねってお話。

で、「人生→今」を考えることにもちょっとハテナがあるよってお話もあって。

「人生」をある程度まとまりのある長い目線で考えるとするなら、それって何かの区切りで振り返って見ることになると思うのです。
それってつまり「反省」なのでは?だから「あの世で人生品評会」になるのかも?

振り返りに重点を置くと、品評会に参加すらできないのが不安になってチートてきに「変える」方法を選びそうになるのでは?って、
ちょっと思ったの。
私も不安になる時って「不確定未来から振り返った今の自分」みたいな視点で不安を作り出してるから。
それで、「今を変える」話に戻っていってしまう。

あとひょっとすると、振り返った時に「あれがあったからこうなった」て、理由づけをしたくなるのかも。
だから最初の、確定的な因果関係で語りたくなるのかもなー。

いくら未来から過去を振り返っても過去を変えることはできない
だからって幸か不幸か今は未来じゃないから(常に未来でもあるけどね)不確定なずっと先を全ては予見できない
不確定だからずっと未来は変わり続けてる。
だとすると結局「今」をどれだけ生きるかってことになるのでは?て思うの。

・1点からだけでは確定しない未来
・未来にいても過去は変わらない  の2つのポイントから思うことは、
いつも今の中で選び続けること、その積み重ねで「人生」ができてて、だから単位はほんとは1つきりの「人生」じゃなくて無限の「今」だなってこと。

全部の今に目を向けると、比べたり矛盾に悩んだりないものに目が行って不安になったりのステージから
やりたいことやできることなんかのプロセスそのものが楽しめるステージに変化していくから
もういつだって最高かもしれないよ?(o^^o)?

「変わりたい」気持ちは過去の私にも今の私にも未来の私にもきっとずっとあって、
それはカップ麺てきに「1週間で誰でも変わるうんちゃら!」要素よりは尊い気持ちだと思う。
(誤解のないように、私はカップ麺だいすきだし、簡単素早くだれでも!は天才だと思ってるよ☆)
短期の1点とも違うし、長期の人生とも違う、
今のプロセスをだいじにしてたら、変わるし変わらざるを得ないだろうなーって、思うのでした!

#コラム #人生 #自己肯定感 #変わりたい

読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!