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「素の私」というトリック

「この人となら素の自分でいられる」「素の私を認めてほしい」
みたいな言葉を、現実でも小説でもドラマでも100万回くらい聞いてきた気がするけど
最近の私は、これがめちゃくちゃ気になってる。

素の私って、ナニ?

何年も前に
「私とは何か―『個人』から『分人』へ」(講談社現代新書) を読んだのをふと思い出した。
調べてみたら「マチネの終わりに」や「ある男」の平野啓一郎さん!(読んでます!すきです!)すいません、今気づきました。

この本に書かれている「分人」主義、当時はぜんっぜん納得できなくて
はぁ!?私は私という中心があって個人でしかないだろ!!って思っていました。
(個人は抽象的な意味で人の最小単位と考えられているけど、対する相手によって性格って変わるよね?というような話だったと記憶)
(詳しくは読んでね)
でも今は何となく、わかる。

人は、人間関係の中にあって初めて、私個人を確立するんだよね。

この世に私ひとりしか存在しなかったら、コミュニケーションも個性も考えることすらも、必要ない。
他の「誰か」と接するから、私との違いが明確になるし
「誰か」との関係そのものに、私の私たる部分が含まれていくんだと思う。
アドラー的でもあるね。

スピログラフの柄みたいに、あらゆる向き(相手・誰か)に向かった私が重なりあって「私」っていう形をつくってる。
「家族」をとっても親と向き合った「私」ときょうだいと向き合った「私」は少し違うだろうし
「友達」をとってもどの友達と接する「私」も同じ心理状態・態度だったりはしない。
そしてやっぱり、世界でたったひとり、私しかいなかったら、ただ生命を維持するだけでどんな感情も考えも必要ない。

と、いうことは。
「素の私」っていうのは、一般的に流通しているイメージのものとしては、存在しないと思うの。

人間関係の中でしか「私」が存在しない=「ありのまま」の状態というのはありえない
「誰か」との関係のうちのどれか1つが「素の状態」「ありのままの状態」だってのは矛盾してるもんね。

「素の私」でいられると感じるなら、それはその相手との関係性が楽だったり居心地が良かったりするってことで
いつまでも「素」のままで自分が変化しなかったら、相手が変化するときっと居心地が悪くなる。
だからずっとすてきな関係性を作り続けていきたいっていう覚悟や喜びが必要だと思うんだ(o^^o)

そして「素の私」を誰かに認めて欲しかったら、それは無理なご相談。
「素」は恐らく「無」だから。
ひとは、命は、ただ生まれて生きているだけで尊いもので、その意味では「無」の私の存在がスペシャルなことは間違いない。
でもきっと、「素の私」を認めて欲しい人は、何も感情のない私を認めてほしいわけではないから。
ということは、誰かに認めてもらうためではなくて、相手との関係を素敵なものにしたいと願ってつくり続けるから
「素の私」が素敵なものとして感じられるんじゃないかなって、思う。

人に認めてもらうことを目標にすると、際限なく「ちょうだい」を続けることになるから、
先に私が私でいることが大切。
そして私でいることはつまり、誰かとの関係を自分から、そして一緒につくっていくことなんだよね。

「アナと雪の女王」、人を愛することから始まったでしょ?
それを構築し続ける勇気の話だったと、感じてるよー。

#コラム #愛 #自己肯定感 #ありのまま

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