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こころとからだ

父の状態がまた一段階進んだ。
良い方向ではなく、悪い方向に。

声が出にくくなったのが始まりだった。
それまでは足が動かない以外は至って元気だったため、車椅子に乗って生活していた父だったが、声が出なくなるとほぼ同時に全身を倦怠感が襲うようになり、徐々に起き上がることも辛くなった。

ものを持つ力もみるみる弱り、今ではもうベッドから起き上がることもできない。倦怠感を和らげるための薬は、結局は意識レベルを低下させることになり、判断力も落ちる。病院に移送させるならこれが最後のタイミングかも、と言われるも、病院はいまだにコロナのせいで厳戒態勢が敷かれている。

面会は3日に一回、一回20分まで、と言われたところで母は再び悩み出した。どんどん弱っていく父は、24時間体制で見守る必要がある。介護はもちろん大変だ。一方で、ここまで面会が限定されている病院に送り込むのは可哀想だと言う。

兄と姉は父を入院させることに反対した。やはり、可哀想だと言う。
私はこれには断固反対の立場をとった。誰が一番苦しむかって、一番身近で全ての世話をしなければならない母である。一緒に暮らしてもいない人間に何か言う資格はない、と私は言った。生きている・生きていく人間が一番大事だし、この場合、私は母を一番心配している。だからこそ実家に帰ってきたし、どちらにせよ母の選択を100%支持する。

我々の意見を聞いて、ますます母は悩んだ。
ひとまずは決断を先送りすることとして、訪問介護の回数を増やして、家で面倒を見ている。


以前、夫婦は不思議だ、という話を書いた。
血縁関係がないにも関わらず、家族内で最も長い時間を共有し、家族の「基盤」となる関係。まだ夫婦関係を築いたことのない私は、そこに畏れに近い憧れのような気持ちがある。長年続く関係の果てにどのような感情が生まれるのかは、もはや謎でしかない。

前回この話を書いたときに、書ききれなかったテーマがあった。
うまく書き切れる気がしないのでバッサリその部分を削ったら、素晴らしい記事に出会った。

静謐という単語がピッタリくる、その書きぶり。
あまりにプライベートなことすぎてうまく書ける自信がなかったこと。それが、家族内における夫婦の特殊性のもう一つの側面、性的関係であった。

前回の記事でも、基本的に母が父を介護していると書いた。
入浴介助はもちろん、排泄物の処理も母がやる。もちろん私がやってもいいし、その方が母の体の負担は少ないのだが、それは父が嫌がるだろう、という「配慮」が、母にも私にもある。

この「配慮」を説明するには、やはり、ある事実を避けては通れない。
「大人になって以降、互いの体を見せたことがある相手であるか」ということだ。

幼い頃に私と父は一緒にお風呂に入ったことがある。でもそれは私がまだ裸体の意味すらわからなかった時代の話だ。小学校に上がる前には、一緒にお風呂に入ることはなくなり、当然互いの裸を見ることも無くなった。父の裸体はほぼ記憶にない。

そう考えると、夫婦はやはり特殊なのだ。
家族の中で唯一、互いの体を見せ合う相手。互いの体を重ねる相手。
それが故の、「許容範囲」が出来上がるのだと思う。

そこに、「娘」の立ち入る余地はない。


そしてこのことは、またさらに別のテーマを浮かび上がらせる。
「体を見せ合わなくなった/重ねなくなった夫婦はどこにいくのか」ということである。

実はこの件に、私は思い当たる節がある。
結局夫婦になる契約は結ばなかったけれど、長く付き合い、一緒に暮らした相手との、最後の「決定打」だったからだ。

7年付き合った相手と別れると、人の好奇心を呼び起こすらしい。
前のパートナーと別れた後に、しばしば「なぜ別れたのか」を人から聞かれ、私は困惑した。それは一言で説明できるようなものではなかった。(また、それを聞いてくる人は大抵それほど仲の良い人ではなかったので、説明できる範囲も限られていた。)

理由なんて、腐るほどあった。
付き合っている時から、いろんなことがあった。多分、私でなければ「一発アウト」となるような女性関係、金銭問題などもあった。こじれにこじれた関係だったけれども、生活を共にするパートナーという意味では、非常に相性がいい相手でもあった。食べたいものや暮らしのリズムが一致し、肌があう、と感じられる人間はそれほどいない。

不満も問題もあるけれど、それなりに幸せ、と思っていた私が、最後に唯一許せなかったポイントが性的関係だった。そういう気分にならない、と断られ続けると、ただ手をつなぐことや抱き合うことすら減っていく。彼がそういう気分になれなかったのはホルモンの影響が大きかったのだけど、その治療をあまり真面目に検討していなかったのも追い討ちをかけた。

この人は私との関係を真剣に考えていないのだ。

そう感じた私は、段々ただ触れることすら煩わしく感じるようになる。
寝ている時に彼の腕が私の上に乗っただけで強く苛立っている自分に気づいた時、「この関係は本当に終わったんだ」と気づいた。関係を清算して、彼が家を出たのはそれからすぐのことだった。

今までにこの話を聞いた人の反応は、二つに分かれる。
「それは無理だよね/大変だったね」という人と、「相手が可哀想」というものである。後者を選ぶ人は、あまり性的関係そのものを重視していないのかもしれない。でも、私は思うのだ。実体験から。

それが全てではない。だけど、夫婦をその他の家族から分けるのって最後はそこじゃないだろうか。そして、心と身体は繋がっているのだよ、と。

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