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後悔のない人生

昔から、死ぬ時のことをよく考える。
子供の頃から、割と身近に死があったからかもしれない。

病気で亡くなる人、老衰で亡くなる人、事故で亡くなる人。
病院で、老人ホームで、ある日突然外で。(ちなみに現代日本で家で死ねる人はかなり少ない。「畳の上で」死ねるのは、様々な条件が重なった、ほんの一握りの幸せな人だけだ。)

死ぬ原因も、死ぬ場所も、死ぬタイミングも、人間には選べないのだと分かった時、最初に覚えたのは恐怖だった。そして何度か経験するうちに、それは諦念に変わり、最後には私の行動指針の一つになった。

人はいつ死ぬかわからない。そして死ぬ時には何も持っていけない。どれだけ稼いでも、お金は現世に置いていくしかない。どれだけ素敵な家族を築いても、その人々に囲まれて死ねるかはわからない。最後に残るのは思い出だけだ。いかに死ぬ時に後悔しないだけの思い出を持てるか、これを選ばなかったら死ぬ時に後悔するんじゃないか、その気持ちが常に胸の中にある。

そんなことを考えている時にこのnoteを見て、なるほどなぁと思った。
何をもって満足するかも、当たり前だが人によって違うのだ。
改めて自分にとっての「満足」の基準が何なのか、この数ヶ月よく考えている。自分はどんな人生を歩みたいのか。どこでどうやって暮らしていきたいのか。

私にとっての満足は、究極的には「新しい知識を得ること」「新しい経験をすること」にあるのだと思う。一度経験したこと、理解したことにあまり関心を持てない。一方で、やったことがないこと、まだわからないものに、ものすごく惹かれる。こう書くとものすごいフットワークの軽い人間が想像されそうだが、そうでもない。

そもそも私は「一度経験する」「理解する」のに、ものすごく時間がかかる。旅行に行くのに腰が重いのも、旅行に行ったくらいで現地のことを理解できるとは到底思えないからだ。もっと時間をかけて、自分に納得いく形で「理解したい」。と思うと大体10−15年くらいのスパンが必要になる。(正確に言うと、それでもなお理解できないことも多々あるのだが。)

その上で、「次の刺激」が欲しくなる。おそらく今の私が置かれている状態はそういうことなのだろう。ミドルエイジクライシスとも重なるものなのかもしれない。何か新しい知識、新しい経験を欲している。つくづく大人しく生きられない人間である。昔はそれは放っておいてくれない他人のせいだと思っていたが、この歳になってようやく、自分こそがその「波乱」を求めているのだと理解できるようになった。

新しい経験、新しい出会い。ままならない生活を経験したい。そんなことを言うとまた不思議な顔をされるのだが、人生において最高の幸せも、最低な不幸せも、どちらも経験したい。(もちろん最後には「最低な経験」は乗り越えたいのだが。)そうして人生を味わい尽くして、死ぬ時に、「あー楽しかった」と思って死にたい。そんなことを思いながら「次の一手」を考える今日この頃である。

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