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一発アウトの世界

少し前に、ちょっとした知り合いが立て続けに世間から注目された。
いわゆる「炎上」というやつである。

飲み会に行けば、その話題になることも多かった。私の年齢や経歴から、彼らを知っているかと尋ねてくる人もいたし、全くそういうことを想定せずに彼らへの強い批判を表明する人もいた。別にすごく仲の良い友人ではないし、私も彼らのモチベーションや発言内容はよく理解できなかったから、特に強く反論はしなかった。

ちなみに、もしこれが自分の友人への批判だったら、私は断固として抗議の声を上げただろう。私にとっての友人の定義というのは「その人が例え殺人犯になっても味方でいられる」人のことを指す。この定義を聞いておそらく多くの人は頭がおかしいと思うのだろうが、リアルな友人たちはきっと苦笑しつつも、私のこの異常なまでの「情の深さ」に納得するだろうと思う。

自分の中に「愛」がないんじゃないかと悩んでいた時も、自分の中に「情」があることを疑ったことは一度もない。大学時代に友人からつけられたあだ名は「演歌の女」「任侠の女」であった。とにかく、受けた恩はいつまでも忘れないのが特徴である。

そんな女は、当然「外」と「内」をきっちりと分ける。その意味では彼らは私の「内」にいる存在ではないので、彼らが強く批判されていることに特段何の感情も湧かなかった。ただ、皆が彼らを一様に批判している様を不思議な気持ちで眺めていた。


5年くらい前から、仕事で付き合いのあるアメリカ人が久しぶりに日本に来ることになった。コロナ前はしょっちゅう日本に滞在していた彼にとっても、実に3年ぶりの来日だった。

久しぶりにご飯に行こうよと誘われて、二つ返事でオッケーした。何が食べたい?と聞かれてイタリアンと答え、彼が探してくれたレストランはイタリア人オーナーの犬が自由に客席を移動している素敵なレストランだった。

久しぶりー!とハグをしあって、そこから積もる話をたくさんした。彼はとっくに還暦を過ぎているけれども、エネルギッシュで、いつ会ってもにこやかで優しい。私にとってはこれぞ「アメリカの良きリベラル」の見本のような人だ。外交官の息子として連合軍占領下の東京で生まれ、その後も70年代を東京で過ごした、異文化に対する視点がとっても柔軟な人。

必然的に、トランプ政権時代の彼は怒り狂っていた。トランプは病気だ、が口癖で、会うたびに現代アメリカの病理を嘆いていた。そんな彼はもちろんイーロン・マスクも病気だと言って憚らない。私はトランプもイーロンも病気なのかは判断できないけれど、ものすごいエゴの持ち主だなぁとは思っているので、そんな彼の話を大体笑いながら聞いている。

社会や政治の話、お互いの仕事の話、コロナの話をする中で、プライベートライフはどうなってるんだ、と聞かれ、何もないと答えると「何が起こってるんだ!」と大声を上げられた。それでも全く嫌な気がしないくらい、私たちは仲が良い。

「誰かいい人いないの?」
「正直、日本人とはもう付き合えないかも、て思ってしまうところがあるんだよね。いつも相手の『トラウマ』の面倒を見させられている気がする。すごく幼いというか…本当の意味で成熟している日本人ってすごく少ないんじゃないかな。」

そういう私に対して、彼はこう答えた。
「日本人のメンタルヘルスに対する考え方が、ちょっと不思議なところはあるよね。例えば有名人がドラッグで逮捕されると、メディアはその人をすごく批判して、その人のキャリアはそこで終わっちゃう。だけど、本当の問題はその人がドラッグに頼らざるを得ない病気だってことで、それをどう治すかだよね。」

なるほどなぁと唸ってしまった。さすがはメンタルヘルス先進国、カウンセリングが身近な国から来た人らしい意見である。そして、私は世間を騒がせている「炎上」騒ぎのことを思い出した。

彼らの発言自体は、批判を受けても仕方ないものだったと思う。だけれども、それで「一発アウト」でいいのだろうか。蜘蛛の子を散らすように周囲から人がパッと離れ、セカンドチャンスはなし、という社会が本当にいい社会なのか、そういう社会の中で人は果たして「病気を治したり」「内省して考えを改める」ことが本当にできるのだろうかーーそんなことを思う。


私が彼らをあまり強く批判する気にならなかったもう一つの理由は、この国の研究者をめぐる環境の悪さもある。

現代日本の大学で下っ端研究者として勤めることはなかなかに辛い経験となる。どの組織でももちろん新人は大変だろうが、それに加えて、日本の大学自体にもう全くリソースがないので、少ないリソースを奪い合う人々の間でもみくちゃにされる。そういう日々の中で、心が疲弊してしまうのも想像に難くない。

そこから飛び出してしまいたい、と思う気持ちもよくわかる。だけど飛び出した先はまた魔境であり、後ろ盾がない中で周りの「ウケ」を狙わないと生き残れない。そして、ウケを狙い出したら、それはもう研究者ではない。書物が燃やされようと、命が危うかろうと、事実は事実と主張するのが研究者の仕事だから。

それでも私たちを救ってくれなかった人々が、「あいつはもう終わりだ」と言っているのを聞くと、不思議な気持ちになる。

元より助けるつもりなんてなかったですよね?
誰も助けてくれなかったからこうなっているわけで、そのことへの悔恨はないんでしょうか?

もう少し失敗が積み重ねられる、ツーアウトスリーボールくらいまでは許される社会がいいなぁと思う私は甘いのだろうか。この世のどこかにそんな世界があるのか、ないのか、まだわかりかねている。


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