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修行の先に

人生は修行だ。
・・・と思ってこれまで生きてきた。

いじめ、病気、パワハラ、モラハラにDV。
自分でどうにもコントロールできないことが人生では起こる。
その度にこう思ってきた。「ああ、やっぱり人生は修行だ。」

もちろん修行というのは、「それをすべき」という意味ではない。
いじめなんて受けない方がいいに決まってるし、暴力は振るわれたことがない方が絶対にいい。する方が全面的に悪いし、被害を受けた方に落ち度なんてない。自分の人生に起こった出来事全てに感謝しているわけでもないし、不幸な出来事が起こらない人生があるなら、そっちの方が絶対にいい。

だけど、起こってしまうものなのだ。
そして起こったら、それが「起こる前の人生」は二度と戻ってこない。いじめを受けたことがない人生には戻れないし、暴力を受けたことがない人生には戻れない。時にそうした記憶は体にも染みつき、長きにわたって人を苦しめる。

人生で初めてPTSDを経験した時、パニックに陥りながらも「ああ、こういうことか」と合点が言った。心の病気とされているけれど、文字通り体が拒否反応を示すのだ。映像がフラッシュバックして、震えと涙と動悸が止まらない。私の場合は時と共に治ったが、よく言われる戦場帰りの兵士たちの症状はもっと重いものだろう。

その痛みも苦しみも、もちろん個人のものでしかない。
私には到底わからない。
それでも、経験する前と比べれば、他人の痛みももう少し現実味を持って想像することができる。少なくとも、私のような平凡な人間には、経験なくしては想像することすら難しい。

嫌な出来事なんて、ない方がいいに決まっている。
だけど、起きてしまったら。どんなに苦しくても立ち直るしかないし(じゃないと結局もっと苦しい)、時間は前に進んでいく。だから思うのだ。人生は修行だ、生きることは修行だ。その先に何があるのかはわからない。だけれども、傷つくたびに、自分が少しでも良い人間になっていると信じたい。

経験は学びになる。そうでなければやってられない。


だからこの表現はとてもしっくりきた。

「結婚とは……修行。修行した人にしかわからない幸せがあると思う。もちろん、修行なんてつらいし、しなくても別にいいの。でも、苦労してみると、その先に見えるものがあるよって、言いたいかな。もちろん、未来は私にもわからない。」

加藤ローサ

幼い頃から、なぜ人は結婚するのだろうと考えてきた。
一般に挙げられている理由はどれもこれも全く合理的に思えなくて、結果私は結婚願望を抱いたことがない。「この人と結婚するのかな」と思ったことはあるが、誰かと、ましてや漠然と「結婚したい」という感情を抱いたことはない。

結婚しても子供ができないことだってあるし、結婚しなくても子供はできる。
幸せなこともあるかもしれないけど、不幸せなことだって絶対起こる。
所詮は社会契約であり、ある種の「パッケージ」として親権や税制度に関して手続きが簡易になる、という以外の何物でもない。

一方で、法律婚に関心がない私も、パートナーを見つけたいという欲求はある。
誰かと心が通い合ったら素敵だと思うし、愛し愛される関係を美しいとは思う。だけどやはり、薔薇色だけの生活は想像できない。嫌なことも、辛いこともあるのだろうなと思ってしまう。もっと言えば、楽しいことがあるのも辛いことがあるのも、一人だろうと二人だろうと変わらないだろうとも思っている。


「だから、所詮は修行ですよね。いいことだけあるわけじゃないけど、それを乗り越えて、より他者の痛みがわかるようになったり、人間として成長できるってことかなって。人生も結婚も。」
エネルギー溢れる彼女を前に、初対面にも関わらずなぜかそんな話をぽろっとした。

そうしたら彼女は大笑いしながら言った。
「修行ってなに!嫌なら別に逃げていいじゃん、楽しいことしなよー!」

目から鱗とはこのこと。
そうか、別に嫌なことから学びを得なくてもいいのか。
少なくとも、そう考える人がいるという事実は私にとって大変新鮮だった。

とはいえおそらく人間そう簡単には変わらない。
私は今後も、コントロールできない不幸を前に「修行」を続けるのだろう。

「禍福は糾える縄の如し」
そういえば、これは敬愛する向田邦子の座右の銘でもあった。

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