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続・期待値コントロール

期待値コントロールという言葉を日常的に使うようになったのはいつからだろう。

恐らく、今の職場で働くようになってからのように思う。きっかけは単純で、この言葉をよく上司が使うからだ。

新しいプロジェクトが始まる時。先方がこちらについてよくわかっていない時。「期待値コントロールしといてね」と言われることが増えた。

財源も人的リソースにも限りがあるので、できることとできないことは明確にある。それを「読み間違えられて」無理なお願いをされることは、先方にとっても時間の無駄になる。だから、期待値コントロールが必要になる。

私はこの考え方に割とすんなり馴染む方だった。
こうして、日常の中でもよくこの単語を使うようになった。


ドイツ人の友人が客員としてくることが決まった時、再び私は上司に言われた。「ちゃんと期待値コントロールしておいてね。」

こうして、誤解がありそうな場面に出くわすと、私が出ていって色々と説明することになった。会社としての限界に関係あることもあったし、それを超えて「日本社会」「日本の会社文化」に関係あることで、できないことややってはいけないことも多数あった。

その度に彼をちょっと連れ出して、コーヒーを飲みながら説明する。先に友人となっていたから互いにかなり率直に話ができたことは、恐らく良いことだったと思う。

一方で、仲が良いからこそ、彼のコメントも辛辣なものとなる。
「『客』と『部下』を時と場合によって使い分けられている気がする」と言われた時は、その通り過ぎて二の句が告げられなかった。

全体の定例ミーティングには「客だから」入れないと言って断る。
一方で、「客として」いつでも好待遇で迎えられて、誰とでもミーティングが組めるかというとそうでもない。「部下から上司にミーティングを頼むには具体的な案件が必要」と言われる。

ゴリゴリの日系会社(それも官僚味が強い組織)で、外部から入った人間が馴染むのはかなり難しい。そのことは着任前にも伝えてあったけれど、思った以上だったと思う。


こうして、あの手この手で「日本社会」「日本文化」についてドイツ語で説明する日々が続いている。その過程で改めて、気づくことも多い。

例えば、日本で働く上ではとにかく「根回し」が大事なこと。
「No」と言わせないように、あらかじめ「Yes」と言われるような案件しか依頼しないとか、「 Yes」と言われるように準備するとか。
言葉にすると改めて特殊性が際立つ。

その日もまた私は彼にしつこく、「できること」と「できないこと」の話をしていた。段々彼は苛立ち、呆れ、「もうわかってるよ」と言い出した。

「しつこくてごめんね。でも上司に『期待値コントロール』しろって言われてるの。」
と言う私に向かって彼はこう言った。

「君たちはいつも『期待値コントロール』って言うけど、その意味するところっていつも『期待値を下げる』ことだけだよね。」

ぐさっ。

その通りだなぁと思いつつも、なんとかこう返した。
「そうだね、変だよね。でも期待しなければ、意外に上手くいった時すごく嬉しくなれるよ・・・」

と言いながら、これもなんだか違うな、と自らわかっていた。
期待しないで、予想よりマシだったら喜べるなんて、なんて消極的な発想だろう。失敗を嫌い、チャレンジングな挑戦を嫌う人間の思考だ。

期待値コントロール。
本来それは、期待値を「適正に保つ」ことを意味しているはず。必ずしも下げるだけではなく、低すぎたら適度に上げることだって意味するはずだ。

ちゃんと期待して、期待外れだったら怒ればいい。
自分の欲しいもの、あって欲しい結果を正しく望んで、その中で努力をしたい。
私の中に頑強に残る「日本文化」と向き合う日々は続く。

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