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神様の物語に生きる

最近ふと思う。
「一所懸命生きるだけではダメなのか」と。
この週末は過密スケジュールだった。長女が大学合格し入学金や授業料を納入するのに少し焦った。次女も受験生で中学で説明会、志望校で面談。末娘は来年から学童に通うので書類を書き提出。
コロナ第3派の中、礼拝は再び休止となり1週間の流れがまた変わった。
加えて来年度の人事についてインタビューがあり、時間が延びて昼食を5分で作り次の予定の為急いで家を出た。
用事が済み帰宅すると夕食の支度。メニューが思い浮かばない。

必死に懸命に生きた週末だった。
でもこのどれも誰かが「救われ」たり教会に「導びかれ」たり、「受洗」したりいわゆる従来求められる「教会成長」とか「人数」とかとは程遠い生活なのだ。
もちろん誰もそれを責めてはないし言われた訳でもない。
ただ現実的に「牧師のあなた何をしてましたか?」と聞かれたら
「一所懸命生きてました」としか答えようがない。

福音って、伝道って、牧会って何だ?
と考える。

聖書の最初、創世記から始まりアブラハム、イサク、ずっと進んでダビデ、キリスト、またまた進んで聖書は黙示録が最後だが、私はその続きを生きていると思っている。壮大な神の物語、ストーリーの中に自分が生きてる!一所懸命生きている!それはビックリだし不思議だしこの上ない喜びで一杯だ。
この神様の物語にこの人、あの人がいて、その人は今ちょっとよそ見してるから
「ねえねぇ神様こっちよ〜」と声をかける。
そんなイメージを持っている。

銀行で大学の入学金がATMに吸い込まれる時、あたふた昼食をつくるとき、
夕食のメニューが思い浮かばない時
神様はそこにいた。一緒にATMを見て、キッチンに立って、メニューにうんうん唸る私の側にいた。

私は神学とか福音とは何ぞや、とか〇〇主義とかは分からない。でも今ここに神は共にいて「週末はお疲れ様、アドベントweek一週目、私もまた共にいる」と言っておられる。
一所懸命しか生きられないし、誰が何人救われてと言う事は多分ないように思うけど、少なくとも神様に
「あなたは何をしたか」と聞かれたら
「主よあなたと共に一所懸命生きました」
と堂々と言えるし、それで、それがいいのだと思っている。

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