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子どもなりの3.11

それぞれの3.11を迎えた。
震災に遭った方々と比べるなら、あの時の自分の体験や記憶は、ささくれ程度の痛みだと思う。
我慢や通り過ぎたり、忘れる事が出来る、痛みだけれども、ささくれの痛みを思い返し、祈る事が自分なりの3.11だと思っている。

末娘はこの春、小学入学する。当然、3.11は体験もなく、地震は大抵夜中に起きるので、経験や体験の記憶、思いはほぼない。
もちろん保育園で定期的に避難訓練をしていて、先生から話を聞き、指示通りに避難する事で、地震や火事は大変なことなのだ、と認識はしている。

夕食後、ニュースは3.11の内容で、津波の映像が流れる、と事前に画面に出た時に、末娘に
「これから津波を見るからね」と伝えた。その画面が出た時に、末娘は

「いのちや体は大事なんだよ。だから一所懸命に大切に生きるの。今日をありがとう、と言うの」
と自分の胸に手を置きながら言い出した。

「そうだね、いのちや体は大切。今日一日を過ごしました。神様ありがとうございますとお祈りながら、生きようね」
と話した。

きっと保育園の先生方が命や身体の尊さ、大切さを日頃からお話しくださっているのだと思う。私達も折々に話してはいるけれど、末娘の心に、自分と他者の命、身体、存在の大切さや、尊さは伝わっていて、そっと優しく抱きしめるものという事も分かっているんだなぁと感じた。

震災の体験や経験のない末娘が、自分の事として考えるのは、現実感はないとしても、映像や避難訓練、誰かから話を聞く事が、小さなささくれなのかもしれない。
その小さなささくれの痛みを、我慢や無視、通り過ぎないで、この日が来るたびに「今日をありがとう」
と感謝と祈りを捧げる生き方をして欲しいと願う。


最後に
3.11の朝の祈りを記録として記す

「神様、3.11のあの日
あなたは
津波の中に
瓦礫の中に
避難する中に
炎の中に
嘆き悲しみたたずむ中に
おられたのでしょうか
悲しみ痛み傷ついた心や身体を抱えて
今日を迎えた人々を
あなたは涙しておられるのでしょうか

私は祈ります
あなたの尽きることのない慰めと平安
復活の希望がその方々にいつも
とこしえにありますようにと
主イエス キリストの名により アーメン

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