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雨イジングスパイダーマン裁判【8】判決〜控訴審

はじめに・雨イジングスパイダーマン裁判概要

2019年に都内で起こった3件のビル侵入窃盗事件。いずれも雨の夜に雑居ビルの屋上や上部階で起こっており、警察は同一人物が外壁や屋上伝いに侵入したものと考えた。現場からは犯人のものとみられる血痕が発見されたという。盗まれたものは現金で総額13万円ほど、幸い死傷者もなく決して重大犯罪とはいえない事件だが、同年末の容疑者の逮捕は警察の命名に従って「雨イジングスパイダーマン逮捕」と全国報道され、珍事件を解決した警察の功績とユーモアがTwitterやまとめサイトをしばし賑わせた。

ところが逮捕・起訴された「雨イジングスパイダーマン」こと当時27歳のバーテンダー・堀口裕貴氏は容疑をすべて否認したうえ、警察による”証拠捏造”を主張し、不正捜査であると批判した。事件の記録を調べて幾つかの矛盾点を見つけた堀口氏は、功名を焦った警察が様々の偶然から自分をターゲットに定め、現場の物的証拠や記録書類を操作したり不利な証拠を無視して、自分を犯人とする”絵”を無理やり描き続けたのだ、という考えに至ったという。少額の犯行ではあるが手口に話題性がある事件であって、警察の気合いの入れようは逮捕現場にマスコミを集めたことからもわかる。
報道が止み、事件についての情報は被告が拘置所から手紙で更新しているInstagramだけとなった状況で、かつて面白おかしく報じられた珍事件はひっそり複雑な様相を呈していた。

捜査に関与した警察官や科捜研職員、被害現場発見者ら19人の証人尋問を含む東京地裁での裁判は約3年かかった。そのかん被告は東京拘置所に勾留されていた。
私は被告と共通の知人がいたことから途中から傍聴に行くようになり、検察側と被告側双方の主張を聞く機会を得た。

検察側の最も強力な証拠は、
●先にも述べた、2箇所の犯行現場にあったとされる微量の”血痕”
である。血痕は被告のDNAと一致しており、被告が犯人でなければそこにあるはずがない。
●また、被告には事件当夜のアリバイはなく、代わりに事件当夜、被告の保険証を持った”謎の男性”が現場付近で職務質問を受けたという記録があった。その男性は自分ではないと被告は言うが、捜査側は被告本人だと考えている。ただし被告は事件以前に保険証を紛失しており、実際に保険証が新宿警察署に遺失物として届けられた記録もあったが、保険証の行方は現在わからなくなっている。
●他に、事件の直前直後と思われる時刻に”謎の男性”とよく似た風貌の人物——被告とも似ている——の行動を辿ることができる防犯カメラ映像や目撃情報が証拠としてあげられていた。

一方、たしかに被告の主張するとおり、検察側の証拠と主張には不思議だと思われる点があった。
●まず、”血痕”が時間経過に見合わないほど鮮血の色であることや、発見当初に作られた調書には血痕の記述がないこと。
●次いで、侵入口とみられる場所にあり、被告が犯人であればバッチリ映っているはずの防犯カメラが証拠として提出されていないこと。
●検察の主張する侵入経路が文字通りスパイダーマン的で、目撃者の目やカメラに映った”謎の男性”の風態——水濡れや泥汚れなどのない細身のスーツと革靴——に合わないこと。
などである。
これらの疑問点をもってただちに”証拠捏造”があったとは断定できなくても、証拠に何かしらの問題がある、とはいえるように思われた。
また、被告は逮捕時に新宿警察署で出血するほどの暴行を受けたと主張するが、警察は否定しており、水掛け論になっていた。

2022年9月6日東京地裁での一審判決で、裁判官は被告側の疑問を「謂れのないもの」とし、検察の主張を全面的に受け入れ、被告を2年6ヶ月の実刑に処した。1000日余りの未決勾留日数から620日を参入し、裁判費用は負担させない、ということだった。

傍聴する限り、判決の論旨は、概ね「この証拠を言って(書いて)いるのは誰それである」「誰それは信用できる」「なので証拠は信用できる」「翻って被告は信用できない」というものであるように思われた。私にとって大変居心地の悪い時間だった。私は社会的地位や信用がほぼない人間で、仮に今後被告になって(傍聴席か被告席以外に私が座る可能性のある席は法廷内にはたぶんない)何か言い立てたときに自分がどういう扱いを受けるのかなんとなく予見できるからである。
一方、被告はこの判決を「裁判官は優等生型で、整理手続の際に提出された論点のみで裁判を組み立てるというルールに厳密だった」「弁護人はアウトロー型で、公判中に新しい論点を持ち込み、裁判官と相性が悪かった」と振り返った。

しばらくして被告から「控訴審を考えている」という手紙を受け取った。一審で言い渡された刑が実質10ヶ月と比較的短期なので「我慢」したほうがいいともいえる。控訴にかかった期間のうち刑に算入されるのは通常最大2ヶ月とされ、控訴破棄となれば約2ヶ月は余分に拘束されることになるからだ。「控訴審での一審判決破棄率は10%前後」「高裁は新しい証拠を取調べることには消極的です」と述べている弁護士事務所の記事もあるように、仮に無実であっても被告にとっては控訴しない方が有利だと考えることもできる。私選弁護士を頼むとなれば費用がかかることもあり、被告にも葛藤があったようだが、考えた末に控訴するということだった。

控訴にあたって、引き受けてくれる私選弁護士を探す手伝いを頼まれた。しかし弁護士と被告との行き違い、外部と被告の行き違い、費用の問題などが重なり、選任はうまくいかなかった。獄中と獄外の意思疎通の困難さは少しは経験していたはずなのに、またこれにぶち当たってしまった。

最終的に被告は単発的に接見を頼んだ複数の弁護士のアドバイスを受けつつほぼ独力で控訴趣意書を書いたという。弁護は国選弁護士が担当している。
知人を通して見せてもらった被告の控訴趣意書は、捜査側に不利な問題を不問にし、不明な点を検証し尽くしていないままの証拠を用いた一審判決を違法とする、というものだった。
※ 3月30日現在、控訴趣意書は被告のInstagramで公開されている。「獄中便り」#387 #388 #389 #390

2月15日に東京高裁で初公判が開かれ、即日結審となった。被告は現在も東京拘置所におり、判決は3月8日となる。

※3月30日追記:控訴審判決では、一審判決が支持され、控訴棄却となった。判決書き起こし

※7月1日追記:判決後、被告は最高裁に上告したが、6月に棄却となり原判決が確定し、刑務所に移送された。上告にかかった未決勾留日数は参入されず、一審と控訴審の日数の一部を参入した刑期は実刑約8ヶ月となる。


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*次回公判(判決)
2023年3月8日1:45 東京高裁506号法廷

控訴審初公判

法廷入口の表示

「雨イジングスパイダーマン」こと堀口氏の控訴審は2月15日に初公判となった。
控訴審の経緯を解説している弁護士事務所のHPを読んでみると、まず一審判決中の間違っていると思われる点を明記した「控訴趣意書」を被告または弁護人が高裁に提出する→約1ヶ月後に高裁で公判が開始され、即日または数週間後に一審判決破棄または控訴破棄の判決が下る、というのが一般的な流れとされている。「控訴審の基本的性格が、第一審判決の当否を審査するものとされており、証拠調べをやり直すものではありません」ともあった。証人尋問などが行われることは稀であるほか、論告や弁論、意見陳述の機会も基本的にはない、とのことだ。

東京高裁は地裁と同じビルの別フロアにあり、506法廷は一審の傍聴席20席に比べて46席と広い。傍聴人は被告の後輩である知人と私を含めた3人だった。
裁判官も検察も弁護人も一審とは別の人が担当する。3人の裁判官による合議制だが、出廷していたのは裁判長裁判官の伊藤雅人氏のみだった。伊藤雅人裁判官は、この日同じ法廷で行われた「日立妻子6人殺害事件」控訴審の担当でもあった。
裁判官が入廷し、慌てたように弁護人が駆け込んできた。法廷の前で件の知人と話し込んでいた若い男性だった。後で知人に訊くと、知人がネットで見つけて被告に差し入れた血液に関する実験結果の資料を新しい証拠として高裁に事実取調べ請求を出したい、という話だったようだ。

控訴趣意「一審の法令違反」

人定質問に続いて、控訴趣意書の確認と事実取調べ請求の可否の決定が行われた。先にも触れたこの趣意書について補足してみたい。
被告から知人に送られてきた手書きの写し、A4に打ち直して9枚ほどの趣意書の内容を私なりに噛み砕くと、まず「一審は犯罪捜査規範に違反する不当な”血痕”証拠を用いた訴訟手続である」として、血痕証拠が”捏造”された可能性を事件発生当夜の一帯の状況と翌朝の事件現場検証の状況から述べている。

血痕証拠について整理を試みた私のメモ

次いで「一審判決にはその”血痕”証拠を基盤として被告を犯人と断じた事実誤認がある」とし、また「この強力な”血痕”証拠に寄りかかって“被告=犯人”説を補強するためにその他防犯カメラ映像やアクロバティックな侵入経路などの疑問点に目をつぶった結果の事実誤認がある」として、「これらの法令違反に対し刑訴法に従って控訴する。一審判決は”適正手続の保障”を定める憲法に反している」というものだ。

開廷即結審

裁判官:ええと、弁護人は
1月18日付控訴趣意書
18日付控訴趣意書補充書
30日付控訴趣意書補充書
2月14日弁護人からの控訴趣意書補充書
の提出で間違いないですか?
弁護人:はい。
裁判官:検察官ご意見お願いします。
検察官:控訴趣意には理由がなく、本件控訴は棄却されるべきと考えます。

裁判官:弁護人は1月18日付の控訴趣意書で事実取調べ請求するということで間違いないですか?
弁護人:はい。
裁判官:検察官いかがですか。
検察官:請求に理由がないと考えます。
裁判官:では却下します。
弁護人:伝聞例外ということで●●(聞き取り不可)…
予備的なものを含めて●●…非伝聞証拠に当たるということで請求します。
裁判官:中身を読んで欲しいんでしょ?
弁護人:はい…疎明資料●●…刑事訴訟法323条2によって●●…疎明資料●●…撮影者は●●…カナダの大学の論文で、学者という性質上●●…「業務の通常の過程において作成された書面」に該当すると考えられます。
仮に、323条2項に該当しなくても●●…323条3項に該当すると考えられます。理由としては、大学教授という立場であり論文という形式で3名の連名であることから互いにチェック作用があり誤りが少なく、「信用すべき情況の下に作成された書面」と思われます。
仮に、323条3に該当しなくても、321条に該当すると考えられます。署名押印はありませんが、先の性質を有しています。作成者はカナダの大学の研究者で海外であることから証人尋問が難しいと思われますが、補充書と●●…
で説明した通り、不可欠な証拠であると考えられます。
仮に、以上に該当しなくても非伝聞供述として、血液の経時的変化●●…
立証趣旨としては、非伝聞証拠としてはそのような証拠が存在したことを明らかにすべきと考えられます。
趣旨としては、血液の色がどう変化するか、ということではなく、現場に残された血痕とされているものの色が「朱肉のような色」と言われており、犯行時に付着したものとされていますが、このような実験があること自体が重要であるというものです。
裁判官:検察官ご意見お願いします。
検察官:323条2、3、321条、非伝聞供述に当たらないと考えます。
裁判官:では却下いたします。

裁判官:これで結審して判決となります。3月8日1時45分いかがですか。
検察官・弁護人:お受けできます。
裁判官:ではこの法廷で判決を言い渡します。閉廷します。

話には聞いていたが、あっけないものだった。

取り上げられなかった新証拠候補「オンタリオ工科大の血液実験」

後で被告に確認したところ、取調べ請求を出そうとした新しい証拠とは、オンタリオ工科大で行われた血液の経時変化を表す実験結果の画像とその説明の日本語訳だったということだ。後輩である件の知人がネットで見つけて訳し、被告に差し入れたものだという。
被告が獄中でホチキス針を使って血を出し、変色の様子を観察してみたという話が一審弁論で述べられていたし、血液が時間が経てば黒ずんでくることは自分の経験としても知っていたが、一連の裁判では血の変色に関して専門家によるデータが法廷に持ち出されたことはなかった。
知人に見せてもらった画像は、同じ温度ならば時間が経つほど血痕が黒ずむことが目視でわかるものだった。ただし、低温下では24時間経っても鮮血と同じ色であるように見えるし、22度でもシミの中心部はあまり変わらないようにも見える。何についたどれだけの量の血かによっても変わるだろうが、事件が起きたのは4月と10月なので、この画像で最も近いものがあるとすれば22度の列だろうか。

血液の経時変化を表すオンタリオ工科大の実験結果より。直径約1.2㎝のシミ状となった45マイクロリットル(0.00475ml)の血液をそれぞれ-20,4,22,45℃の状態で3,4,24,48,96時間後に撮った写真。

この画像だけでは被告にとって圧倒的に有利な証拠とは言いきれなそうではある。しかし、血液の経時変化について専門家による実験が存在すること自体が、"血痕”証拠についての一審以来の疑問は被告だけのものではないことを示している、と考えることができるし、証拠調べ請求はその論法で行われている。一審弁論では、事件発生時刻から発見までは7時間(2019年4月に起きた守ビル事件)、または14時間(2019年10月に起きたエステ店事件)ほど経っているため、鮮血と同じ色の血痕が発見されるのは常識的に考えておかしい、と主張したが、一審判決ではこの疑問は「謂れない」とされ、取り合われなかったのである。

「伝聞例外」「非伝聞証拠」など聞きなれない言葉を含む弁護人の発言は、この資料を証拠として採用できると言ってくれそうな法令を列挙して「これらのうちどれかには当たる」とざっくり主張していたものと理解できる。被告によれば、提出資料はこのオンタリオ工科大の実験結果のみだったという。

10分ほどで終わった公判のほとんどの時間を事実取調べ請求が占めていたが、この請求は却下された。控訴審の流れを述べる弁護士事務所の記事に「高裁は新しい証拠を取り調べることには消極的です」とあったのをを思い出した。
控訴審は結審となり、判決は3月8日となる。
(3月14日記)

追記:
控訴審判決では、一審判決が支持され、控訴棄却となった。判決書き起こし
(3月30日記)

参考:
控訴や上告をすべきか」東京ディフェンダー法律事務所HP(2021.6.21)
基礎からきちんと控訴審」『NIBEN frontier』2019年6月号
Monitoring the solid-state VIS profiles of degrading bloodstains(Kgalalelo Rampete, Theresa Stotesbury, Colin Elliott, 2022)
『日本大百科全書』(小学館, 1994)


被告の情報:Instagram「獄中便り」(ハッシュタグ #雨スパグラム
担当/事件番号:刑事係5部/令和4年(う)1478号


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