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雨イジングスパイダーマン裁判【7】 私見

捜査員のネーミングが取り沙汰された雨の夜のビル上層階連続窃盗「雨イジングスパイダーマン」事件。一瞬で下火となった報道の裏で、被告・堀口氏は拘束されて3年、裁判で無罪を争いつつ、獄中からInstagram「獄中便り」を発信している。
弁護側は捜査側の証拠捏造を告発するが、検察側は言いがかりの詭弁だとしている。被告による捜査・司法制度批判が極めて明快な一方、10余万の窃盗と決して大きくはない被害額だが複雑で合理的説明がつかない点のある事件だ。判決は9月6日となる。

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「嘘つきはどっちか」

検察側と弁護側は双方を嘘つきと断じる。どちらが嘘をついているのかが問題になる構図だ。
「疑わしきは罰せず」が鉄則の刑事事件ではあるが、この事件で検察の言い分を疑うことは大がかりで組織的な証拠捏造を認めることになる。裁判官は、仮に無罪だと判断しても無罪だと言いづらいのではないだろうか。

検察や警察を疑うのではなく被告を疑うならば、なぜ被告が不利な否認を続けたのかという問題が残る。自供すればそろそろ満期出所も可能だったかもしれないし、保釈申請も受理されていたかもしれない。酌量も受けられるかもしれない。
刑務所の職員、のみならず雑居房での収監者どうしのいじめは大変ひどいことがあると聞く。仮に「やっていた」として、刑務所だけには行かないと決めて未決勾留の参入に賭けることはできるだろう。しかし、未決勾留参入は裁判官のさじ加減なので、反省の態度がなかったり怒らせたりしたら受けられない可能性がある。とすると、「やったのに否認して未決期間を長引かせる」のはちょっと考えにくい。しかし検察や警察を疑うよりも被告を疑うほうが社会的に波風が立たない。

普遍的な正論

検察と被告のどちらを疑うにしても、被告が獄中記や意見陳述や被告人質問で一貫して行なってきた、捜査と司法の制度批判それ自体は極めて正論かつ明快である。

否認事件が被告の不利になる仕組みは冤罪の要因として専門家によっても再三指摘されている。たとえば秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』によれば、日本では「本人の自白なしには人を罰さない」という江戸時代に遡る理念を建前として拷問が行われていた。日本国憲法によって拷問は禁止され、現在の刑は「客観的な証拠」によって決められる。しかしそれは新たな建前であり、現実的には、保釈や早期解決、刑の重軽には自白の有無が関わっている。(※1)
「ドアストッパーが安物で滑りやすくって」5センチくらいしか開かない密室で行われた堀口氏の取調べのエピソード#73 は、このような建前と現実の関係を端的に表すだろう。

被告による、捜査と司法の制度に対する一貫した批判の持つ普遍性。(※2)獄中記を読んで最初に受けたのはこの明快な印象だった。事件が複雑でややこしくて不明点が多いことと批判の明快さ、このギャップがこの事件にはある。

ある事件に対して「黒か白かはどうでもいい」という立場がある。これは発話者と状況によってそれぞれ内実が決まる。

  • 「やっているかやっていないかはどうでもいい(理由:友達・家族・仲間だから)」

  • 「やっているかやっていないかはどうでもいい(理由:赤の他人だから)」

  • 「有罪判決か無罪判決かはどうでもいい(理由:赤の他人だから)」

  • 「有罪判決か無罪判決かはどうでもいい(理由:現行の法を信じず、よりよい法があると信じるから)」(※3)

  • 「やっているかやっていないかはどうでもいい(理由:現行の倫理基準を信じず、よりよい倫理基準があると信じるから)」

加えて、(理由:本人が提起した問題が正当性を持つから)ということも可能だ。しかし、明快なのは本人が提起した問題だけというこの複雑で何が事実かわからない事件で、部外者がこの明快さだけに注目するのは避けたい。「有罪ならば批判は正しくない」「無罪ならば批判は正しい」「やっているならば批判は正しくない」「やっていないならば批判は正しくない」というのと同じくらい安易だ。それに、普遍的な制度批判に数年をかけつつ同時に「やっていない」と言うのに数年をかけた人に関して、後者の問題を無視して「黒か白かはどうでもいい。批判が正しいのだから」というのは倫理的にどうなのか。だからここではわかってないなりに、事件がわからないという話をしたい。

極私的最大の謎

ピースビルから通報を受けて駆けつけた巡査らに職質され、堀口氏の保険証を見せつつ「読み」の違う「ユウキ」と口頭で名乗った男性は、「読み」で照会されても犯歴等が該当せず、侵入道具なども持っていなかったため嫌疑は低いと判断された。この男性は言い方はなんだがこの機転のおかげでマークを逃れ、職質をぶっちぎることができた。(※4)
しかし後から「読み」違いが発覚し、加えて侵入事件が他にもあったことがわかり、(弁護側の見立てによれば)ミス挽回にしゃかりきになった警察を捏造に走らせ、堀口氏の災難が始まった。

この保険証の件は裁判の争点になっていない。「とにかくこの男は堀口氏ではない」というのが弁護側の主張で、真相の挙証責任は弁護側にはないし、弁護側にも検察側にも裁判戦略があって、やじうまの興味を満足させるためにやっているわけではない。しかし、じゃあこの男は誰なんだという疑問は残るし、この事件で結構一番わけがわからないところの一つだ(争点になっていないから検察も弁護側も見解をあまり喋ってくれないというのもある)。

獄中記と公判から保険証に関する話を時系列で並べてみる。

・堀口氏によれば2018年10月、保険証をカード入れごと失くした。#122
・検察によれば2018年10月5日、保険証のみ新宿署に届いた。#122 及び論告
・2019年4月15日、警察は堀口氏の保険証を持った男を職質した。当時は照会できなかったが同日中に堀口氏のデータが該当し、職質報告書にもその旨書いた。弁論
・2019年11月1日、警察が記録した堀口氏の逮捕時の所持品に保険証はない。#122

保険証は警察に届けば本人の住所に通知が行き、本人が引き取りに行く場合は本人確認書類が、代理人が行く場合は委任状と本人確認書類が必要だが、

  • 誰が引き取ったのか。本人か別人か

  • 誰も引き取っていないのか

  • そもそも届いていたというのが捜査側のでっち上げか

  • 職質のエピソードごと捜査側のでっち上げか

  • 堀口氏が持っていないなら保険証は今どこにあるのか

これらが不問だ。(※5)

素人なりに考えると、警察には職質のエピソードをでっち上げる動機があまりないのではないかと思う。堀口氏を犯人と特定するにはまず現場に氏の血があったことを言えばよいのであって、他にもカメラ映像とか目撃証言とかあるのだし、職質のエピソードは必ずしも要らない。
とすればこの「堀口氏の保険証を持って職質された男」は実在し、実際の捜査で堀口氏を犯人と見なす理由になっていたと考えざるを得ない。弁護側は、この男も職質も実在したという前提で裁判を進めている。

この男が誰なのか、どころか何なのかは、被告と弁護人の間でも意見が分かれるようだ。「実は事件と無関係の人ではないか」と押田弁護人は言っているという。職質時、直前の守ビル事件で奪ったはずの40枚ほどの紙幣も侵入道具も持っていないからだ。とすると、被告に似た男は真犯人とこの男と2人いたことになるが、被告は懐疑的なようだ。#283
少なくとも被告と弁護人の一致した見立てでは、ワールドビル侵入犯と守ビル窃盗犯は別人であってこの事件は連続事件ではない。ガラスの割り方が違うことと、侵入経路が不自然だというのがその主張である。#45 弁論

どっちも嘘をついていない?

仮に堀口氏によほどの愉快犯で非合理的活動を好む一卵性双子の兄弟がおりその人を庇っているのだとしたら、容姿もDNA型も似るか同じかなので、この事件は検察も弁護側もどちらも嘘をついていない。ただ、3棟のビル間のアクロバティックな空中移動の繰り返しは、よほどの愉快犯で非合理的活動を好む人でなければ不自然だ。守ビル事件は屋上の鍵を持っていて事務所の存在を知っていたテナントの誰かがやったのだという弁論のほうが一般的な感覚では合理的に思えるだろう。そうするとやはり守ビル現場の血が堀口氏のDNAと一致したという捜査側の証拠は不可解だ。


※1   自分が読んだところでは秋山のように元裁判官や人権派弁護士、自白を専門とする心理学者、救援連絡センターなどが否認事件の「人質司法」や捜査段階の不透明さを批判している。一方、元警視庁幹部といわれる作家の古野まほろは『警察用語の基礎知識』で、捜査は厳しい監査のもとで行なわれており、自白の誘導や調書の「作文」にも必然と配慮がある旨を述べる。古野の論法に従えば、捜査側は「否認したら国賊だから銃殺」とかではない、一定の建前に基づいている。
なお、検察官は求刑時に「不合理な弁解をしていて反省の色がない」「被害に対して弁償がない」ことを酌量の余地がない理由として挙げている。犯人だと決めているのが検察の立場なのだから当然ともいえるが、犯人ではないというのが被告の立場なのだから反省も弁償もしなくて当然だ。

※2  2007年、ある活動家が原付交通違反で罰金を命じられ、理由を述べて支払いを拒否し、逮捕・拘留され、警察・裁判官批判を展開し、裁判官を怒らせ、求刑を大幅に上回る判決を引き出した。堀口氏の事件と簡単には比べられないし極端な例かもしれないが、反省しない者を見ると捜査も司法も暴走することは(反省する者が多いので目につかないだけで)「わりとある」といえるだろう。

※3  現行の法と現行以外の法についてはさんざん議論がされているだろう。そもそも絶対ではないならなぜ現行の法があるのか、というような。たとえば、弁護士の大野正男は「現行の法は絶対ではない」という考えを牽制する。

大野:たぶん自然法と実定法を対立させる考え方だと思うんですよ。つまり、現在ある法律、現在の社会制度というものがすべて望ましいわけじゃなくて、こんな息苦しい時代に、それを超える普遍的なルールがあるんではないか、そういうものへの憧憬でしょう。そういう点では、自然法の思想はたしかに革命的というか、現実批判の機能を持っているわけです。ところが、(…)現世への批判ではなく、現世の永続化のために、自然法的な考え方が使われていると思うのです。

『フィクションとしての裁判』大野正男・大岡昇平, 朝日出版社, 1979

納得せざるを得ない。仮に、物や人や言葉を使って「事実」を再現する試みである裁判で、「やっているかやっていないか」の事実と、「やっている」場合いかに裁くかは、現行の法の出る幕ではなく本人の倫理と責任にしかない、と実存をフル稼働させて言ってみても、本人の希求し措定する「現行の法以外の裁き」は本人が希求し措定するかぎりにおいて恣意的に本人を肯定するだろう。
「現行の法は絶対ではない」という考えは私は捨てられない。ただ安易に持ち出すのはできるだけ控えたい。

※4  現在、戸籍の名前の登録に「読み」は含まれておらず、氏名の漢字を何と読むかについては法的な制限がない。漢字と音の結びつきについては専門家でも見解が分かれるようだ。書史研究者の石川九楊は、そもそも日本は表記と音の二重言語国家であって固有の結びつきはないという。しかしいわゆるキラキラネームの増加も相まって、個人データを検索しやすくすることで行政の事務処理を効率化するため「読み」「表記」双方の登録に向けて法制度の改正が進められている。
巡査は「いつも読み仮名だけ伝えて照会している」と述べているが、身分証の提示を求められた人が口頭で違う「読み」を伝えて照会できなかった結果、この事件だけでなく、照会がヒットしなかったので無免許運転ということで逮捕された2021年北九州の誤認逮捕事件など、実際にトラブルが起きている。今後、照会の仕方も「読み」と「表記」双方に変わってくるのではないか。

※5  保険証引き取り問題について堀口氏はこのように推測する(太字筆者)。

まず、犯人は拾うもしくは盗む、いずれかの
方法で僕の保険証を含むカード類を
手に入れる。そして、犯人は保険証を悪用する
事を考えた。が、そのまま持っていて、もし
持ち主(僕)が被害届等を出していれば
職務質問等に遭ったらその時点で
遺失物横領もしくは盗品等保管などの罪に
問われるリスクが生じる
事になる。

そこで、保険証を「安全に悪用」する為に
一度落し物として警察に届ける事にした。
そして一定期間を空け、僕の名をかたり警察に
保険証が届いているかどうか確認をする。
そこで届いている、という回答があれば一定期間
持ち主が引き取りに来ていない事が判ることから、
この先も引き取りに来る可能性は低い
と考えられる。

そして犯人は僕のフリをして保険証を受け取り
に行く。僕のカードケースには名刺や住民票等が
入っていたから、身分は十分に証明出来ただろう

かくして犯人は「正式な手続を踏んで」保険証を
自分のモノにし、安全に悪用出来るようになった、
という訳である。手続上は、本人に返還された
事になっているのだから、当然職質を受けても
何ら問題はない。しかし、犯人の唯一の誤算は
僕の名前の読み方が判らなかったという事である。

#123

これは納得するし自分は考えつかなかった。保険証は警察に届けられたら書かれている住所に書面で通知が来るので高確率で持ち主が取りに行ってしまい、「犯人」は目的を果たせないが、それは数をこなす(いっぱい財布をとる)ことでいつかクリアできるし、堀口氏の場合、保険証に書かれていた住所は大阪だが本人が居住していたのは東京であり、大阪に通知が行っても東京にいたら気付きにくいだろうから、保険証に関する現時点で一番合理的な説明だと思う。


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