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キッチンの回想/伊藤連

伊藤連

 昨年の10月にパリに着いて、もう半年が経った。その間も、ほぼ右肩上がりのペースで上昇をつづけるユーロ高(というより円安)には、当然、悩まされている。
 1年間の滞在費として某機関から支給された額は140万円だったが、今月の生活費は、家賃を除いても10万円を超えた。別に贅沢をしているつもりはない。2駅分の距離を徒歩で往復し、ベルヴィルの中華スーパーで割安の青島ビールと辛ラーメンを仕入れる日々である(もちろん、酒を飲むな、安いベトナム製ラーメンを買え、という指摘もありうるが、ただありうるだけの指摘は受け入れないことにしている)。
 だがたしかに、留学するまでの26年間実家暮らしを続けていた私は、到着からしばらく、金と生活というわれわれの思考の条件ともいえる事柄について、まったくのボンクラぶりを発揮しつづけた。口座にまとめて入金された1400000という数字の羅列が、私のただでさえ曖昧な金銭感覚をより鈍らせたところもある。小学生が、「100万円」という額を、すなわち「生涯遊んで暮らせる金額」のように口にすることがあるけれど、まあ、それと変わらない。もっとも、今どきの小学生はもっとリアリスティックかもしれないけれど。
 たとえば、カレーが食べたくなったとき、中華スーパーには日本製のカレールーが売っているが、日本国内に比べれば当然割高である。そこで、町の至るところにあるインドスーパーで安いスパイスを買って、カレーを自作しようとする。
 ネットで調べると、3種類ないし5種類の基本のスパイス・セットがあれば、まずはそれらしいものができるらしい。だが、せっかくいちから作るのだから、良い出来のものにしたい。  
 この「せっかくだから」というのが罠である。
 基本セットのスパイスに加えて、「せっかくだから」シナモンやクローブを買い足し、具材の方でも、「せっかくだから」と牛のスジ肉を買い、「せっかくだから」と玉ねぎ、にんじんにとどまらず、ブロッコリーやほうれん草も買う。もしかしたら、と思い、隠し味にりんごも買う。
 手間のかかることをあえてやるのだから、ふつうのおいしさ以上を目指してしまうのは自然な心の動きだろう。だが、こうして思いつくままに足し算していけば、既製品のルーを買って手軽に作ったときよりも、ずっと高くつく。それに、料理は、足し算すればするだけうまくなるわけでもない。
 こちらにきて、そんな失敗を繰り返すうちに気がついたのだが、そもそも私は、「とりあえずこんなもんで」といった種類の判断が苦手なようだ。たとえば料理に関していうなら、手に入りづらかったり、使う料理の種類が限られているから処分に困りがちな調味料を他のもので代用したりすることが、なんとなく嫌なのだ。すこしずれるかもしれないが、日本にいるときから、カニカマとか魚肉ソーセージとかいった代物は避けてきた(ちなみに、ちくわぶは大好きだ)。
 数ばかり増える調味料を前に、どうしてかしら、と考えてみると、やはり両親の趣味というところに突き当たる。
 たとえば、小学生のころ、林間学校で班ごとに飯盒炊爨の献立を立てて競うという企画があって、私たちの班はミートソースパスタをメインに置いた。材料費を計算して一定の金額に抑える必要があり、また調理時間も限られていることから、リーダーの女の子が、粉をお湯にとくだけの簡易ミートソースを使うことを提案した(彼女は、そうすれば浮く分のお金で、フルーチェを作りたかったのだ)。私も、そのときは、安くて楽ならそれでいい、と思った。
 ところが、家に帰って作成した献立表を母に見せると、「お湯でとくミートソース? 何それ、不気味」と言う。まだ素直だった私には、それ以来、「簡易」とつく食材への拭いきれぬ(そして無根拠の)猜疑心が根付いた。
 父は、今に至るまでずっと芸能——といってもいわゆるテレビ的「芸能界」ではなく、舞台のそれ——の仕事をしている。とくに、ヨーロッパの事情に通じているのが、興行師としてのかれの強みのようなのだが、そうした業界内でのポジションもあってのことなのだろう、昔から国産の作品を見る目が厳しい。とりわけ、海外で受けた趣向を国内向けに再版するような企画に、厳しい。その種の代物を見かけると、わざわざ子供の私を捕まえて、「こういうのは所詮、縮小再生産にすぎない」といって聞かせた。この「縮小再生産」という言葉も、素直だった私の頭に、ひとつの基準として刻まれた。
 私は、この程度のことを、当世風に「呪い」などと形容するつもりはない。まあ、育ちが跳ね返って不利な状況を作るというごくありふれた話である。とはいえ、現実に明日の食い扶持に困る状況に立ってみると、こういう育ちだからねえ、と開き直るわけにもいかないので、なんとか私を作り直す必要がある。
 パリにきて、はじめて生活なるものを自力で回さねばならないようになり(もっとも、そこに、「労働」という軸が欠けていることは自覚している)、だいたいこんなことを考えている。生きている現在に立ち向かうのは、もちろん過去の堆積物としての私でしかないから、この闘いで、私はいつでも後手に回るより仕方がない。漏れた水によって袋の穴に気がつくようなバタバタした日々に、いまのところ終わりは見えない。人間とは、自らを省みて、自らを作り直すことのできる存在である、という18世紀的な定義のしみじみとした温かさに凭れながら、今日もエプロンの紐を結び、キッチンに立つ。
 そういえば、おととい以来、調味料の棚に「カピ」(海老を発酵させた調味料)が並んでいる。私の小さなキッチンが、東南アジアの屋台となる日も、近い。

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