見出し画像

愛しても無駄な女性に翻弄される男性の魅力

人生の節目節目に何度も交互に読み直す本があって、それがブロンテ姉妹、姉のシャーロット・ブロンテの「ジェイン・エア」と、妹エミリー・ブロンテの「嵐が丘」です。
しっかり自分の足で人生を積み重ねていこう!と手ごたえがあるときは「ジェイン・エア」で、やばいなー、、流されてるかもなー、どうするかなーと頭を抱えてるときは「嵐が丘」を読んでたりします。
「ジェイン・エア」については前回書いたので、今回は「嵐が丘」について、そして「グレートギャツビー」と「源氏物語」の源氏の晩年についても触れてみます。

「嵐が丘」はヒースクリフという男性がキャサリンという女性を愛し、憎み、復讐を遂げ、そして発狂死するまでの一代記をいろんな人たちの語りによって繋いでいきます。その視点はわりと冷ややかで客観的で、だからこそヒースクリフの狂気が際立ちます。多くの人はヒースクリフの悪漢としてのピカレスクっぷりにおののくのかもですし、実際にヒースクリフの背徳っぷりがこの作品の肝なんでしょうが、私からするとヒースクリフは完全に被害者に見えます。キャサリンという思慮の浅い女性たいして怒りを覚えるというか。ヒースクリフに愛される資格はない!と思う一方、キャサリンのアホっぷりに、ちょっと自分のあるあるを見てしまって落ち込んでしまったり(-_-;)

そもそもキャサリンはヒースクリフを愛していたのか?というか、何がしたかったんだ?ですよね。正直なんも考えてないこの女。
お嬢さまで、美人で、愛されることに慣れていて、だから深く考える必要はなかったのかもしれない。ヒースクリフを愛してたとしても、お気に入りのおもちゃとか、子犬レベルでただ独り占めしたかっただけな気がする。(そういえば上流のリントン兄妹が子犬を引っ張りあってちぎれたら泣きながら相手に押し付け合うさまを目をキラキラさせながら見てたわキャサリン。ヒースクリフ引いてたけど)ヒースクリフを対等な人間としては扱ってなくて、しかもそれが無意識。悪気がない。そんなキャサリンのヒースクリフ大好き!を、彼は人生初めての愛として真に受けて可哀想に、翻弄されてしまう。キャサリンにとって上流階級の世界に魅了されてエドガーを選んだとしても、それは別に裏切りでもなく、自然なこと。だって「高慢と偏見」のヒロインたちもフツーに領地や財産の値踏みをしてるし、当時の女性にとってはたぶん当たり前。上流の男性たちとしては財産でコントロールできるお嬢さまのほうが扱いやすいですしね。財産もルックスも関係なく愛だけで男性を選ぶ「ジェイン・エア」が、当時の良家の子女が読むべきでないとされたというのは理解できます。

たぶんそれでも、キャサリンはキャサリンなりに、無意識の世界ではヒースクリフを必要としていたのでしょう。自分でも自覚せずに。エドガーの妹イザベラがヒースクリフと結婚するとなったらひどく苛立っていたから。それでもキャサリンは、自分のその気持ちと見つめあうことがなかったから、ヒースクリフに気持ちを責められて発狂してしまう。もし彼女にしっかりとした思慮があったなら、リントン夫人としてエドガー生きていくか、全てを捨ててヒースクリフの愛に殉ずるかしてたでしょう。要するになんも考えてなくてお気楽に愛されていたかったのだと思います。

私はヒースクリフこそ純粋でまっすぐな男性で、おかしいとしたら英国の上流社会と、愛を、財産やら領地やら生活の質やらチョイスする女性だと思います。

同時に思い出すのがスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」です。ライ麦のホールデンくんもお気に入りの作品で、村上春樹も人生の目標として翻訳をしています。レオナルド・ディカプリオがティファニーとコラボして映画化してました。この作品の主人公ギャツビーも、上流階級の娘、デイジーに恋い焦がれ、人生と命を棒に振ることになります。このデイジーもまた、キャサリンと同じタイプというか、思慮が浅い女性です。というか、上流階級全体の傲慢さ、ナチュラルに自己中で人を人とも思わない態度をを描いているのがこの作品です。全身全霊をかけてデイジーに恋い焦がれ、人生を捧げているギャツビーに対し、デイジーは彼をイケメンで羽振りの良い浮気相手としか思ってないし、いつ切り捨ててもかまわないとすら思ってる節があり、実際にサックリとそうしてしまいます。この作品は、先にもあったように、レオナルドディカプリオも演じているのですが、その昔ロバート・レッドフォードも演じていて、これがもうため息が出るほど美しい姿なんですよね。。。。。白スーツが眩しい!
そう、ヒースクリフといい、ギャツビーと言い、愛してもまったく甲斐のない女性、に全てを捧げる悲しい男性たちは、悲惨であればあるほど美しく、魅力的なのですー。もーなんとかしてー!

もう一人、日本の物語からも悲しい男子のお話を。紫式部の「源氏物語」に出てくる、柏木。主人公光源氏のライバル頭中将の息子です。彼も貴公子ではあるのですが、恋した相手は女三の宮、朱雀院の娘であり、現天皇の妹であり、皇室に復帰した光源氏こと六条院の正妻でもある女性です。絶対手を出しちゃいけない身分のスーパーセレブ貴族ですね。
おそらく14歳くらい?でも精神年齢はもっと幼く、自我すらも芽生えていないようで、乳母子の女房も、源治の息子夕霧も、光源氏も、女三宮の幼さと思慮のなさにかなり引いています。それでも、柏木は身分の高さと伝え聞く美しさから、彼女に恋い焦がれ、密通は成功し、子までなすも、宮からは優しい言葉ひとつかけてもらえず(身体は許すけどと流されてるだけで拒みもしない)不義密通に気付いた源氏に柏木はいじめ抜かれて衰弱死します。流れからお分かりのように、宮は全然、柏木を愛してないです。柏木が亡くなったと聞いて、やっとかわいそうな人、と涙を流しますが、それも乳母子から「宮さまが他人のために涙を流された!」と驚くレベルです。
だからこそなのか、柏木は痛々しく、美しく魅力的です。

人生も命も全身全霊をかけて、女性を愛することができる男性て、純粋で一途で、どうしょもない魅力があります。
そして、同時に、もし自分がそんな男性に本当に深く愛されたとして、ちゃんと報いることができてるのかなと思ったり。
キャサリンのように、自分の愛に無自覚で相手を振り回したり、デイジーのように人生をかけて愛されてるのに本命でなく、都合の良い不倫相手としか扱わなかったりするのはもちろん許されないし、女三宮も、もしその気がないのだったら、男性の将来を思ってきっぱり断るべきだったと思うのです。流されて子どもこさえちゃうとかアホすぎる!
藤壺の宮だって源氏を愛しながら彼の将来を思って泣く泣く拒みつづけたわけですしね。

彼女たちほど愚かでないにしても、ちゃんともらっただけの愛情を返せているかな。愛されてる状態のラクさに甘えてるだけかもれない。ちゃんと愛してくれてる人を理解し、必要とされる愛を与えることができてるかな、とか。
正直、私は後悔することの方が多いです。相手の気持ちとか、苦しい想いとか、あの頃は全然わかってなかったなーとか。

ただ、同時に、ヒースクリフも、ギャツビーも、柏木も、彼らの愛はそれはいわゆる愛だったのかな、とも思います。もしかしたら愛のように見えた、なにか別の苦しい何か、だったのじゃないかな、とか。

それは、時々あらわれる、私を必要としてくれる、くれた人たちを見て、思います。なんだか、愛情というには、悲惨なほどの苦しさと、現実にそぐわない訴えが続くんですよね。もしかしたら彼らは人生にいざ向き合うときに苦しくて、私に逃げているのではないのかな、と、もしくは何か彼らなりの哲学のようなものに沿って、私と関わることでそれを全うしようとしているのではないのかなと。
なので、私は必要とされても、モテているとは感じないし(そもそも美人でないので愛されてるというのが信じられない)この人は私を通して、求めている別の失われた何か、があるのだなと解釈しています。そして、そうやって私を必要としてくれた人が今までに三人、若くして亡くなっています。こう書くと改めて怖いな。でもなんとなく、短い人生に対する焦りを感じていたからこそ、私を必要としていたとしたら、なんだな辻褄が合うな、と。

たぶんヒースクリフもギャツビーも柏木も、恋に狂ったようで、そういうことでしか人生に向き合えず、それに添うてくれる女性が欲しかったのではないかな。
例えばジョンレノンは、彼は失われたものの苦しさから、意識的に早いうちから、生涯のパートナーを求めていたと思います。彼も早死にしちゃったけど。彼の歌は常に何かを求めてて苦しいくらい。

それが、愛なのか、何なのかわからない。でも、狂おしく求めるもの。それがある男性は本当に美しいし、魅力的だなと思います。
そして女性としては、そういう男性たちを少なくとも見殺しにしちゃいけないなと思うのです。ちゃんと、理解して、愛して、一緒に生きてあげないとな、と。そゆわけで、私はたまにキャサリンをバカだなあ、私も気をつけよう、と思いながら「嵐が丘」を読み返しています。そして、やっぱり男性を愛するとしたらジェインのように、男性が全て失おうと、恐れず愛そう、と、「嵐が丘」押しやって、「ジェイン・エア」を手に取るのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?