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💭どこかの街の、架空の思い出たち💭

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短編小説や詩などを載せています。
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記事一覧

短編小説『お昼休みの非常階段』

そんなそれぞれの思いとは裏腹に、今日もまた、新たな一日がスタートする。 ♦♢♦ 「ちょっと、橘さん。2年2組の春見くん、また今日も英語の授業欠席したでしょう?」 4限目の授業を終え職員室に戻ると、後ろからキンキンとした声がきこえてきた。振り返ると、わたしとおなじ英語科の坂井先生が腕組みをしながら険しい顔つきで立っていた。瞬間、ファンデーションのきつい匂いがマスク越しにでも鼻をついた。わたしは眉をしかめないようにと眉間に意識を集中させる。 「あっ、そうなんです・・・・・

『乾杯のレモン水』

 わたしの母はレモン水が好きなひとだった。キッチンで丁寧にレモンを切り、透き通った水のなかにそっとレモンを添える母の白い指を、いまでもときどき思い出す。レモン水を優雅に飲む母の姿はとても美しくみえて、わたしの憧れだった。  そんな母をみているうちに、わたしも飲んでみたいと、必然のようにそう思うようになった。でも、まだわたしには似合わないと冷静に考えている自分もいた。もっときちんと年を重ねて、きちんと大人になったら飲んでみよう。幼心にそう決めていた。  だから、そのときがく

短編小説『チョコレートと赤い家』

今日は遠回りして帰ろう。高校生のとき、そんな気分になる日がときどきあった。理由は特にないけれど、ただなんとなく、時間を無駄にしたくなることがたまにあったのだ。 だからその日も授業を終え学校を出ると、いつもは右へ曲がる道に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。 途中足元に転がっているちいさな石を蹴りながら、「小学生のときはよく友だちとこうして遊んでたな」と思い出に浸ることも楽しみのひとつだった。一種の現実逃避なのかもしれないけれど、構わずにゆっくりと道なりを進んでいく。 それか

#文脈メシ妄想選手権

 午前ニ時。大半のひとが眠っているであろうその時間に、わたしはカバンからスマホを取り出した。街灯もない道端にぼうっと浮き上がる見慣れた光に油断して、涙が出そうになる。ぐっとこらえて、指を素早く動かし電話帳から彼の名前を探す。そのまま、受話器のボタンを押した。   「―もしもーし?」  三コール目、かすかなプツッという音のあと、いつもの声が聞こえた。  「―夜中にごめん。わたし、由紀。……ちょっといまから、そっちお邪魔してもいいかな」  雅人は最近、昼夜逆転生活をしている。きっ

『季節はずれの物語』

雪が特別なものじゃなくなったとき、ひとは大人になったって言えるんじゃないかな。 電話越しに聞こえた彼の声は優しげで、まるで地面に落ちたら一瞬で溶けて消えゆく雪のように、わたしたちの空間を伝った。 その声がわたしにはとても心地よくて、凝り固まった心がとろん、と柔らかくなる。 ✽ ー大人になるって、どういうことなのかな。 今日食べたプリンが美味しかったの、大好きな作家さんの新刊が出てたから買っちゃった、来週のデートはどこに行こうか……。 そんな他愛もない話を電話越しに交わ

『きみの名前』

ずっと、自分の名前がきらいだった。 きっかけは、幼稚園のときに流行ったアニメ。そこに出てくる悪役のキャラクターと同じ名前。ただそれだけのことで、次の日から友だちにからかわれるようになった。 いま思い返せば、くだらなすぎて自分でも笑ってしまう。いくら、まだ現実とアニメの世界の境界線が曖昧な年頃とはいえ、あまりにも理不尽で安直すぎる理由だ。からかわれた事実から目をそむけたら、かわいいとさえ思ってしまう。 それでも当時の自分にはとても悲しい出来事だった。どうして正義のヒーローと同じ

ねえ、この世界では、枕についた涙の跡は消えないんだ。どんなに洗っても、どんなにこすっても、ずっとずっとそこに跡を残し続けるんだ。だからほら。いつかのきみと一緒に目を閉じる夜も、なんだかムードがあっていいんじゃないかな。

懐かしい香りに、懐かしい音色、懐かしい景色。それに、長いまつ毛。それらをもう一度すべて揃えられたら、あのころのわたしに戻って、またあなたと同じ空間にいられるのかな。黒鍵を撫でる長い指に見惚れながら、お互い他愛もない話をした時間に。…なんて考えてしまうわたしはきっとおばかさんだね。

ウソのさよなら

彼と“また明日ね”、と言い合ったあとの電車の中はひどくさみしい。 あのまま一緒にいられたらいいのにな、なんて願いながら、隅っこのドアに寄りかかる。 変わりゆく景色を見ようと窓の外に視線を移すけれど、そのガラスに反射しているのは、いまわたしと同じ空間にいるひとたち。 軽く手を繋ぎながら楽しそうに話す恋人同士。席に座っているおばあさんと、その前に立って少し背中を曲げながら幸せそうにしゃべりかけるおじいさん。今日は楽しかったね、と嬉しそうに話す小さな男の子と、その子を温かい目で

残酷なこの世界でわたしは

言葉が、するり、と道端に落ちた。 ポケットの奥のほうに入れていたたくさんの言葉たちが、まるでわたしから逃げ出していくように、するりと。 落ちたそこはちょうどアスファルトの上で、細かな傷が少しついていた。 わたしはすぐに駆け寄って拾い上げようとしたけれど、急にそれがひどくみすぼらしいものに見えてしまう。だから、ただその言葉たちを見下ろすことしかできなかった。 ああ、わたしはまた、わたしの言葉を見放してしまうんだ。 その自分の薄情さが、また自己嫌悪の穴へとわたしを突き落

そのぬくもりを

ひとりぼっちだったとき、かじかんだわたしの手を温めてくれたのは小さなマグカップだった。  わたしの手のひらより少し小さな、白いマグカップ。 心が冷え切ったときはいつも、ゆらゆらと湯気を立たせながらわたしの手のひらを温めてくれた。 その熱いくらいの温度が、“きみはひとりぼっちじゃないんだよ”と言ってくれているみたいで、無機質な冷たさになるまでずっとずっとカップを握りしめていた。 ◇ それから長い月日が経って。 いまわたしの手を温めてくれるのは、あなたの少し大きな手。 じ

愛 × 淡雪

【愛】 ①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。万葉集5「―は子に過ぎたりといふこと無し」 ②男女間の、相手を慕う情。恋。 ③かわいがること。大切にすること。御伽草子、七草草子「己より幼きをばいとほしみ、―をなし」 ④このむこと。めでること。醒睡笑「慈照院殿、―に思し召さるる壺あり」 ⑤愛敬。愛想。好色二代男「まねけばうなづく、笑へば―をなし」 ⑥〔仏〕愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。十二因縁では第8支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。今昔物