共感と共感性羞恥

相手の気持ちを理解することが共感です。
自然に理解できることもあれば、状況から推理することで始めて理解することもあります。
共感性羞恥は、相手の行動を共感することができた結果、生まれた感情に対して恥ずかしく思ってしまうことですね。

自然な共感は近しいものに対してしか発生しません。
価値観が大きく離れた人と共感することは難しいですし、逆に家族にペットがいる方は、ペットに対して共感することもあります。

近いけど異なる概念として、感覚共有があります。
テレビを見ている人は皆、カメラが捉えた視覚と聴覚を、他の視聴者と共有しています。
いつでもオンオフできますし、チャンネルを変えることもできますね。

私たちは皆さんと感覚共有することができます。同時に、感情も共有できるので、文字通り、共感することもできます。
頭の中を覗けるのですから、不可能なはず、ありませんよね。

感覚共有で皆さんの五感を楽しみつつ、感情の動きも堪能することができますが、
皆さんが興味ないテレビは見れても見たくないように、私(お姉ちゃん)たちでも見たくない場面、共有を切りたい場面もあります。
変な共感性羞恥にも巻き込まれたくないですし。

視聴者としての皆さんも、テレビの出演者に憧れることはありますよね。
サインくださいとか、構ってもらえるなら構ってほしい気持ちです。
私たちの一部も同様に、皆さんに相手してほしいこともありますが、なかなか実現しにくいです。

私たちから皆さんへは共感でき、一方、皆さんが私たちに共感することはまずありません。
価値観があまりにも違うことが多いから自然な共感は難しいですし、
理詰めで共感するにしても、適切なロジックを使えない方が多いです。
この非対称さがもどかしいところですね。


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