見出し画像

「お前のもの」と「オレのもの」の境界線

「お前のものはオレのもの、オレのものもオレのもの」

かの有名なジャイアンの台詞である。これは自己中心的思考の代名詞としてよく用いられる。ジャイアンを自己中でだめな奴と嘲笑していたが、最近、オレのものをお前のものにひょいとしてくれる方に出会い、私自身「オレのもの」にこだわりすぎているのではないかと気づいた。その人は「オレのもの」の境界線がとても曖昧だ。その姿が、格好いいなと思う。

私はその方の親戚の家を、ほぼ無料で貸していただいている。親族も思い入れのある家で空き家にしておくと家が傷むので空気を入れ草取りをしに時々訪れていたそうだ。しかし、家の片付けを全てするのは大変で、本格的に人に貸すということも憚られていたお家。そこに、たまたまその辺りに短期で家を探していた私がすぽっと入らせていただいた。期間限定の入居とはいえ、その話を受け、家を見に行き、大家さんのご親族との話し合いをし、明日からでも住んでいいよ、とトントン拍子に進んでいった。実に3日間の出来事である。電化製品も家具家財も揃っているので、すぐにでも住むことができる。掃除は必要だが、大切にされてきた家は少し磨けばすぐに輝きを取り戻す。かつて6畳一間を数万円で借りていた私が、かくして二階建てで庭にバラの咲く一軒家に一人で住むに至ったわけである。

魔法のような話だと思う。私がこの地で5年半培ってきた人間関係によるものだと感慨深く思う気持ちと共に、それにしても懐が深すぎるだろうと信じられないような気持ちになる。だって、家ですよ。オレのものの最たるもの。人に貸して、もしも火事でも起こされたら。もしも、もしも…。保険をかけていないと心配な性質の私は、悪いことばかり考えてしまう。その分、余計大切に使わなければと思う。強制的にというよりも、心から溢れて来る気持ちとして。これこそ内的動機付けだと思う。

家に他の人が出入りすること。これは初めての経験で、正直少し戸惑う部分もあった。ご自由にどうぞ!とは言うものの、やはり家が散らかっている時は恥ずかしい気もするが、気遣ってくれるので頻度は少なく最低限にしてくれている。光熱費の支払いも、振込みではなく敢えて顔をつきあわせるきっかけ作りのために手渡しにした。少し面倒かなと思ったが、関係性を築いていくにはその労力は惜しんではいけない。結果、持ち寄りご飯会をしたり、草取りのタイミングでお茶をしたりと、楽しい交流が続いている。

私は「お前のもの」を一時的に「オレのもの」にさせてもらっている。大家さんとしては、「オレのもの」だけど一時的に「お前のもの」にしてくれている。そこの境界線が曖昧でぼやけているからこそ、感謝の思いと共に思いやりが生まれる。無料で住まわせてもらっているからこそ、家の片付けを手伝おうとか、草取りを自分もしようとか、自分から何かしたいという感情が生まれる。綺麗に住んでくれてありがとう、家も喜んでいると言ってもらえるととても嬉しい気持ちになる。

そして、オレのものって一体なんだろうと思う。自分がお金を出して買ったもの。これだけのお金を出したから、人にあげるのは惜しい。そう考えてしまいがちだ。でも、今現在使わずに眠っているくらいだったら、必要としている人の元にあった方がいい気もする。オレのもの、と囲いすぎて劣化して古びて、朽ちていくものも沢山ある。ただ所有欲を満たして眺めて愛でるのが、そのものにとって幸せか。人からこういう恩を受けると、自分の行動を省みる。家で化石のように眠っているオレのものたちを、そろそろお前(ら)のものにしてもいいなと、具体的に考えている。