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断面図

気に入っていた牛ノ戸焼の皿を割ってしまった。

少し気持ちが焦っていて手荒に水切りかごに積み上げていたため、かごの隙間から滑り落ち、パキンと真っ二つに割れてしまった。染め分けという手法で二色にくっきり分かれている線から斜めに少しずれたところに新たなラインと、普段は見えない断面が見える。それに子分のような小さなカケラが2つ。ああやってしまった。とてもショックで、少しの間立ち上がれなかった。

皿が割れると、いつも同じような心境になる。今回の皿は窯元まで行って買った皿で、特段気に入っていた。窯元まで行けばすごく高価なわけではないが、床に雑然と何枚も積まれた中から一枚一枚しげしげと眺めて選んだ一枚だ。値段に関わらず、やっぱり凹む。独身の時は九州にだって器を買いに飛んで行けたが、赤児を抱えた今は鳥取の東の端さえ遠く感じる。二枚買ったのでもう一枚あるが、せっかくペアで買ったのにと、また凹む。

同じ牛ノ戸焼の、ものすごく気に入っていた一輪挿しを、前に猫に割られてしまった記憶も蘇る。あの時は粉々に砕け散ってしまい、半べそをかきながらそれでもカケラを拾い集めたのだった。その時に、今度こそ金継ぎを習おうと心に決めたのに、あれから全然進んでいない。そういえば、あのカケラを入れた箱は、その後2回引っ越したがその都度一緒に移動しているんだった。どこに置いたのだっけ。私の荷物は、そういうものがたくさんあるので重たい。

昨日は、皿が割れたことから派生してどんどん気持ちが落ち込んでしまった。独身時代の産物である皿を、いつまでも大切に撫で回している自分。粉々に砕け散った器は今の私自身のようだ。ぐるぐると思考がマイナスに向く。すんでのところで、夫がツクシのハカマを取るのを手伝ってくれ、子どもを脇に置いて一緒に手を動かしてハカマ取りに熱中していたら少し気持ちが落ち着いた。

1日明けて今日になってみると、さらに気分は晴れやかだ。昨日は、忌々しくて気持ちがおさまらず、割れた皿をかけらもすべて菓子箱に押し込み、セロテープでぐるぐる巻いてしまいこんだ。その箱を取り出してきて、明るい縁側でかけらを並べてまじまじと見る。割れた断面なんて、なかなか見る機会がない。記憶の中では断面は黒かったが、ちゃんと見るとグレーに近い、少しだけ赤茶が混ざった土の色だった。高台部分と皿部分の繋がりが滑らかで、同じ皿でも場所によって若干厚みが違うことに気づく。壊れたら死ではなく、形を変えたこの姿を愛でることも、器への誠意な気がする。日常の器は、使うからこそ壊れることと共にある。

割れたかけらを、指でつまんで箱に戻し、セロテープでぐるぐるに巻いて「牛ノ戸焼皿」と書いて、いつか金継ぎする時のために押し入れにそっと戻した。

(皿が割れた時は結構いつも文章を残しているようだ)


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