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母=私


人生の登場人物は、すべて自分

私は「人生の登場人物は、すべて自分」という概念で生きています。

誰かと関わっていて「モヤモヤ、違和感、嫌悪感」などの感情が生まれる時は、その相手が「あなたの中にも同じものがありますよ」とか「(本当は良いも悪いもなく、ニュートラルな出来事なだけなのに)あなたはこの出来事に対してジャッジしてますよ〜」って、教えてくれてるだけだと思っています。他人は、自分を教えてくれる鏡。

それで、人生で1番初めに深く関わる登場人物「家族(父、母、兄妹、祖父、祖母など)」を受け入れられていないと、
その後の人生で出てくる登場人物が、自分を教えてくれる鏡として、同じ「受け入れられないこと」を演じてくれて、私が私に氣付くまで何度も繰り返してくれる仕組みになっている。(なんて親切!)と、思っています。

私と母の例

過去の私は、「あの人って、自分勝手だよね〜。責任感なさすぎる。」と、誰かをジャッジしてました。
まさにそれは、母の価値観だったんです。そかも、その母の価値観が、まるっと自分の価値観になっていたんです。
だから、自分勝手な人が許せなかったし、(本当は自分勝手で居たかったのに)自分に対しても自分勝手が許せていなかった。

あとは「すぐ隠しちゃう」母のことが、嫌いでした。「なんで、他人を氣にして、本音を話さないんだろう?風通しが悪くて居心地悪いなぁ」って思ってました。
実はそれは自分がやっていることでした(笑)しかも、その行動をしている自分に対して「良くない!」ってジャッジしていたのでした。

ジャッジに氣付いて「別に、他人を氣にしても良いし、本音を話さなくてもOK。ただ、その人が選んでそうしているだけ。良いも悪いもない。」って思えるようになったら、母のそういう部分も許せました。あぁ、母はその世界を体験したくて選択しているだけなんだなぁ。って。

どんな時も、コントロールできるのは自分だけ。
自分に関しては「本当はどうしたいの?」って内観したら「全部曝け出したい。自分とも、人とも、本音で繋がっていたい」って心の声が出てきました。
だから、そっちを選択して、今までと行動を変えて、今では理想の状態に近づいてきています。

鏡の法則ワークでの氣付き

先日、急に思い立って、「鏡の法則ワーク」をやりました。
幼少期に一緒に暮らしていた家族に対して、ひとりずつ、ネガティブとポジティブを見ていって、今の自分は誰からの影響を深く受けているか、探るワークです。

そしたら見事に99%母じゃん!というくらい、母から影響を受けている事が浮き彫りになり、改めて母とのことを振り返ってみました。
最近の私は、お金に対する感情がテーマなので「母とお金と私」で内観していきました。

細かいことも色々出てきたけど、1番大きな部分?コレかー!って氣付いたことがあって。
母はこの言葉をよく言っていました
「お金をいただくという事は、きちんと人様に責任を果たさないといけないよ」。

今聞くと、違和感しかない。
だって、お金って「自分が心からやりたい事で誰かに貢献できて、自分も、相手も、ありがとう!ってハッピーな循環が起きた時にいただくもの」じゃないの?人様に責任を果たした対価じゃなくない?

そこで氣付いたの。
母(=私)はずっと、他人に対して「責任」を果たしてきた人。
だけどさ、「本当の責任」は、自分で自分に対して果たすものじゃん?

結果、自分を信じてくれた人に愛をもって貢献するって意味では人様に責任を果たすとも言えるんだけど、、
本質的なところでは、自分で「私はこれをやるんだ!」って決めて、行動して、その責任を自分で果たすってことだと思うの。
そもそものスタートが「他人」だったら、お金も集まらないし、集まったとしても苦しくなるんじゃないかな?

あぁ、私の他人軸や他責思考も、母が最初に教えてくれていたんだぁーー!と氣付きました。母よ、ありがとう。

母に対して、今は…

自分と向き合うまで、母のことを「尊敬している、大好き!」と思っていました。
「父と離婚して、自分を犠牲にして私たちを育ててくれた母のことを、好きでいなきゃいけない!子供が母を大切にするのは当たり前!」みたいな思い込みがありました。
だけど、自分と向き合い始めて「実は、嫌いなところがたくさんあった!別に、お母さんのこと好きじゃなくても良いんだ。」って認められたら、すごく楽になりました。ただ、産んで育ててくれたこと、たくさんの愛に感謝の氣持ちがあるだけ。

今は「幸せを祈ってるよ。何か必要だったら駆けつけるよ。」みたいな、ちょっと離れたところが、今は心地いいと思っています。
飛行機に乗らないと会えない距離なので、年に1回帰省するかな?ってくらい。長期で滞在すると「その言い方イヤ〜」って思うことがたまにあるから、その時はまた内観&秒で解放(笑)

余談

「あ、今母のことを書きたい!」と思ってpcの前に座った瞬間「左の脇腹」に激痛が走りました。
この場所の痛みは、ある日突然感じるようになって(確か中学生くらいからだった)動けなくなるくらいの激痛なので、「大きな病気だったらどうしよう。私死ぬのかな?」って思って、当時の私は怖くて誰にも相談できませんでした。

心と身体の事を学ぶようになって「体の痛みは、自覚できていない感情や、潜在意識からのメッセージ」と私の中の概念が変わりました。
だから、「どうして痛みが出たか?」身体に聞いてみました。
そしたら「怖い。母のことをアウトプットするのが、怖い。」って教えてくれました。自分の中では「よし!今だ!書くぞー!」ってモードだと思っていたけれど、同時に「怖い」が存在してたんだなぁ、って氣付かせてもらいました。
だから、「そっかぁ。怖かったんだね。」「大丈夫だよ〜」って、身体をなでなでしたらスッと痛みが治りました。

「これだけ母への感情を解放したから、もう大丈夫!」って思うタイミングが何度かあったけれど、
日々内観していくうちに「あれ?これも結局またお母さんに繋がるじゃん…!」みたいな事が、どんどん出てくる(笑)

「母」に対する自分の中の感情は、無限に近い階層があって、きっと一生向き合うんだろうなぁ〜。と、今の時点ではそう感じています。(だけど、どんどん軽ーい解放になってる感じがする!)


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