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毎日note「自分探しよりも、自分なくし」ーーみうらじゅん”マイ仏教”を読んで。
「自分探し」よりも「自分なくし」。
人は、自分探しの旅に出がちだ。
見知らぬ土地に足を踏み入れ、まだ見ぬ自分に出会うため、本当の自分を探して、人は旅に出る。一方で、外の世界に自分を探しても見つからない、なぜなら自分は自分の中にいるから。「自分探し」というワードを検索すると、多くの文章が上がってくる。
みうらじゅんさんの”マイ仏教”を読んだ。
自分のために、印象に残ったことをメモしておきたい。
「自分探しよりも、自分なくし」という言葉と、去年参加した「ほぐす学び」の最終sessionで、環境心理学者の南先生がおっしゃった「場所的自己」という言葉につながりを感じた。
いくら「自分探し」をしても、その答えが出るはずはない。
いつの「俺」かも、どの「私」かもわからないのだから。
それよりも「自分をなくす」方が、はるかに具体的な解決になるはずだ。
つまり「機嫌を取る」=「自分なくし」なのだ。
「何で俺が」をやめて、相手の機嫌を取ることを考えた方が、人間関係がスムーズに行くことは明らかです。しかしこれは大変な「修行」ですが。
「自分なくし」は生きるテクニック
みうらじゅんさんはこうも言っている。
ものまね芸人が大好きです。
「自分をなくす」ということと、「ご機嫌を取る」ということが、彼らは同時にできているからです。
友達といるとき、家族といるとき、職場にいるとき、人前の自分と一人ぼっちの自分は違うんだよな…と思うことはある。本当はネクラだけど、人前では明るく振る舞ってしまい疲れるとか。でもそれは、他者に対してご機嫌を取っている証拠なのだ。それは「自分をなくす」ことでもある。これは大変だけど修行でもあるのだと。素人のモノマネで見ていて辛いものがあると感じるのは、中途半端に自分をなくすことができていないからなのだ。やると決めたら、思いっきり自分をなくして芸をやりたいものだ。
南先生がおっしゃる「場所的自己」とは?
家族といる自分、仕事している自分、友人といる自分、孤独な自分。
どれが本当の自分かを考えてもわからない。それぞれの「場」にいる自分はどれも自分で、どれが本当の自分というのは探してもわかることはなくて…。
私もよくわかっていないけれど、わかったようなわからないような。
お釈迦さんは「人生は苦である」と説きました。
苦が起こるのは、煩悩すなわち欲望があるからと、「スッタニパータ」という初期の経典でも言い切っています。
「妄執は苦しみの起こる原因である」
一方で欲望をキープ・オンすることも難しく、欲望も体力とともに落ちてきます。欲望にまみれて突っ走っている人間には、怖いものがありません。
突っ走れなくなったときに初めて、恐怖を感じ始めます。
仏教のいう「中道」、つまり「ほどほど」というのは本当に難しいことだ。
文化は欲望から生まれる
文化と呼ばれるものには、欲望が必要だ。
「カッコいい」ものを作りたい、という欲望のないものが、後世まで残るはずがありません。
”他人と過去と親”この三つと自分を比較してはいけない。
「なんで俺はこの年になってこんなことをしているんだろう」と思ったとき、そう思う理由は、誰かと自分を比較しているからだ。
悩みの根元が比較にあることに気づくことで、楽になれることも多いはずだ。
お釈迦さんが、
「諸行無常」すべてのことは変化する
「諸法無我」この世に実体はない
という教えを説いたのも、比較の苦しみに早く気づきなさい、ということなのかもしれない。
どんなに辛いときも「そこがいいんじゃない!」
自分だけの念仏を唱える
みうらじゅんさんは、著書の中で言っています。
彼女にフラれた、仕事が上手くいかなかった、あの上司が嫌い、、、
どのようなケースでも「そこがいいんじゃない!」と、唱えることで少しは楽になるかもしれない。
言葉を逆手にとって、逆境を跳ね返し、少しでも元気になるよう仕向けるのです。
そして、「自分で自分がわからない」と嘆くことにも、
そもそもわからないのが普通で、わかってしまうともっと落ち込むかもしれないと。だからこそ、自分をしつけ直すのもまた自分なのだと。
やってしまったと感じたら
あぁしんど…と感じたら
そこがいいんじゃない!
と唱えて前を向いて生きていきたい。
読んでいただきありがとうございます。 noteで出会えた奇跡に感謝します✨ サポートいただけましたら楽しい寄り道に使います。