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俳句にはなぜ季語が必要なのか?

川柳との違いといった区別ではなく、俳句そのものに焦点を当てて、俳句の持つ「嬉しさと楽しさ」を考えてみたいと思います。

悲しいときも辛いときも、その感情を季節にちなんで、下手くそながらも句にすることで、苦にならないことも多々あります。

マイブーム(ちょっと古い?)ですね。俳句は。自分なりに詠んでみると、(人様に観てもらうと下手すぎて恥ずかしいのですが臆面もなく)
なんだか締めに小うどんを食べるようなものなんです{笑
スッキリして気持ちがいい。自己満足でしょうか。


俳句における季語の使用は、この詩形の独特な特徴の一つであり、その根底には日本の自然観と文化的な背景が深く関わっていると思います。

季語が俳句に必要とされる理由をいくつかの視点から考えてみます。

自然とのつながり

四季の表現

日本は四季がはっきりしており、それぞれの季節が独自の自然の変化をもたらします。季語を用いることで、句に明確な時間的背景が与えられ、読者はその季節特有の情景や感情を共有できます。

自然との共鳴

俳句は本来、自然と一体となる心を表現するための手段ではないでしょうか。季語を通じて、俳人は自然界の一部としての自分の存在を感じさせ、自然との調和を詠みます。

文化的伝統

伝統の継承

季語は古来からの俳諧や連歌にも見られる要素であり、これを用いることで俳句は日本の文学的伝統を継承しています。また、季語は俳句を他の詩形と区別し、その文化的アイデンティティを強化します。

共通の語彙

季語は俳句を詠む際の共通語彙として機能し、詩人と読者間での深い共感を促します。この共有された語彙は、限られた言葉の中で豊かな表現を可能にします。

芸術性と表現の深化

情景の瞬間性

季語はその瞬間、瞬間の、その時季にのみ捉えられる特定の自然現象や文化行事を指し示します。これにより、俳句は瞬間の美を捉え、限定された時間と空間の中で深い感動を伝えることができます。

情感の共有

季語を用いることで、詩人は個人的な感慨や思索を季節の移り変わりと結びつけ、より普遍的な人間体験の一部として表現します。これにより、個々人の感情が共感を呼びやすくなります。

季語は、俳句が単なる形式を超えて、深い文化的意味と芸術的価値を持つ理由を提供します。それは、季節の移り変わりを通じて自然の美しさ、人間の感情、そして宇宙全体との関連性を感じさせる独特な方法です。


俳句から季語を取ったら「赤とんぼ」{笑

季節感のない句には、どこか自然じゃない雰囲気がただよいます。
さりげなく時季を忍ばせることで、深みを増すというか、そういう形式が好まれてきたんじゃないでしょうか?

わたしは、芭蕉とか蕪村とか一茶など古典的な俳句はもちろん、現代俳句と呼ばれてる比較的自由な俳句も好きです。

とりわけ松尾芭蕉の句には、圧倒的に他を凌駕する新鮮さがありますね。
一番好きな句は、

「さまざまのこと 思ひ出す 桜かな」

芭蕉45歳頃の句と聞いております。


季語(水)

俳句は一円もかからない優雅な趣味です。
今日もご覧頂き有難うございます。
念水庵


雪のなか 凍えるように 山桜




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