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【ネタバレ】映画レビュー「フィーリング・スルー」

基本情報

「フィーリング・スルー」はショート動画配信サービスSAMANSAで配信されているショートムービー。20分にも満たない短い映画だけど、一生忘れられないほど心に響く。

メイキングや、主人公アーティを演じた俳優、ストーリーの元になった監督の体験などは、SAMANSA公式noteをぜひ。

まずは先入観なしに観てほしい映画だけど、一方で色々な事前知識がないと、細かな部分の意味が捉えにくいところはある。私としては、この映画はよくある感動ポルノとは一線を画すものだと思っているけど、ちりばめられた細部を読み取れないと、単なる感動ポルノに見えてしまう危うさもある。

だから、私の知識が及ぶ範囲で、この映画を解説してみたいと思う。

以下、ネタバレ注意!!!!!!!(スクロールで本文が表示されます)







人が持つ力、アーティが持つ力

まず、語るべきはアーティ…というより、人が本来持っている能力のこと。それは「触覚を通じて、人の感情や人の心の機微を感じとる」という能力だ。これは、普段私たちが意識しない、あるいは文化的に「強制的に忘却させられた」能力とも言える。

その実例が、伊藤亜紗先生の「手の倫理」「目の見えない人は世界をどう見ているのか 」「目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか」で紹介されている。

中でも印象的なのが「手の倫理」で紹介されているブラインドマラソン(視覚障碍をもつランナーが、伴走者と共に短いロープでつながって走る競技)の例。伴走者が勾配のキツい坂を見たときに感じるためらい、道路脇から飛び出してきそうな子どもを見たときに感じる警戒、そして走りながら考えていることまで「筒抜け」になってしまうという。後天的な視覚障碍の場合、伴走者の見た風景を、そのまま見るというケースすらある。

本当にときどきなんですが、伴走者の存在を忘れて、一人で走っているような錯覚にとらわれるときがあります。そんなときは、目の前に走路が見えるときがあって、すごく驚くとともに幸せな気持ちになります。納得する走りができたとき、伴走者が喜んでくれているのを見ることのほうが、自分が嬉しいよりももっともっと嬉しいことです。

伊藤亜紗著「手の倫理」より

ブラインドマラソンを題材にしたマンガ「ましろ日」にも、このような「感情が筒抜けになる」という現象は描かれている(このマンガも大変に面白いのよ…)。

こういった感情を読み取る力は、視覚障碍をもつ人だけが持っているものではない。ブラインドマラソンの例で言えば、伴走者も同様に走者の情動を感じるのだ。だから、それは人間が本来もっている能力だと思った方がいい。そしてそれは、身体接触が気軽にできない現代において、なかったことにされている能力でもある。視覚障碍者は、視覚が使えないからこそ、その能力を研ぎ澄まさざるを得なかった、と言えるかもしれない。

つまり盲ろう者は「自分の外の世界からほとんど情報を得ることが出来ない」わけではない。「触覚を通じて、人の感情や人の心の機微を感じとる」力に関しては、常人の数倍長けた存在なわけだ。これは大きな違いだ。アーティを「何も出来ない、何も感じられない人」と見るか、「鋭い洞察力で、人の本質を見抜く人」と見るか。

アーティは「見抜いていた」

実際アーティは、物語の非常に早い段階から、テリークのことを「見抜いていた」はずだ。テリークの中にある戸惑いも、心細さも、優しさも、鬱屈した部分も。

振り返ってみると、アーティがテリークの情報を得られる場面は沢山あった。テリークのガイドの仕方、バスが来るまでの時間の伝え方、アーティがつまずいたときのリアクション…などなど。テリークがどれだけソフトにアーティの手を取っているか。ためらいながらもアーティの手を引くとき、どれほど気を遣っているか。「Same」と手のひらに書いたとき、どれほど力がなかったか。そういった部分は、映像として非常に丁寧に描写されていたと感じる。

だからこそ、一歩間違えば本気で怒らせかねないイタズラ――コンビニに買い物に行って深夜のバスを一本乗り過ごす――も、アーティはできたのだ。もちろん、これはリスクを伴った行動なのだけど、アーティには確信があったと思う。つまり、これによってテリークの仲がより深まる、ということと、テリークにちょっとした夜食と釣り銭を与えることができる、という確信だ。もちろん、財布ないし財布の中身をまるごと盗まれるリスクも、激怒したテリークに殴られたり、置き去りにされるリスクもあったけど、そうならないという確信があった。だからこそ、彼は屈託なく笑ってペットボトルを振って見せたのだと思う。

ただ、テリークがティーンエージャーだったのは、アーティも想定外だったのだろう。ニューヨークの深夜に、ティーンエージャーの少年がうろついている、という状況は、やっぱりアーティにとっても、意外なことだったのだ。

居場所のない若者、テリーク

次は、準主役であるテリークについて。

彼は近年ニューヨークで問題になっている若年ホームレスで、友達とたむろしていても、彼にだけ家がない。友達やガールフレンドの家を転々としている、居場所のない若者だ。

そして、若者らしい描写も素晴らしいものだったと思う。友達と小突きあいをしていてヒートアップしたり、釣り銭をちょろまかすにしろ、全くうまくできず店員に目撃されたり、そのごまかし方のダメさ加減だったり。ともすれば説明的になりそうな描写を、あくまでさりげなく物語にちりばめた監督の力量は見事。

そして、もっとも重要なことは、テリークはその現実を受け入れていない、ということだ。彼がホームレスから小銭を恵んでくれと言われたとき、どのような顔をしていたか。自分はホームレス状態なのだけど、やっぱりどこか他人事で、自分の問題にできていないのだ。

強くなったテリーク

そんなテリークだが、終盤に思わぬほど強くなる。あまり親切でなさそうなバスの運転手に、アーティを家の近くの通りで降ろすよう、強い言葉で約束させるのだ。それは、まだ友達との小突きあいでヒートアップしていた若造と地続きではある。もっと丁寧な言葉や、うまい頼み方はあったはずだ。でも、そういう未熟さを差し引いても、明らかに彼は強くなっている。それはなぜ?

思い出すのは、不朽の名作「モモ」の一節だ。モモは時間泥棒から逃げ回っていたが、自分の不安は自分が感じているだけでなく、仲間も同じように危機に瀕していると思い当たる。そのとき、モモの中で何かが変わる。

モモはきゅうにじぶんのなかにふしぎな変化がおこったのを感じました。(中略)不安は消えました。勇気と自信がみなぎり、この世のどんなおそろしいものがあいてでもまけるものか、という気もちになりました。というよりはむしろ、じぶんにどんなことがふりかかろうと、そんなことはちっとも気にかからなくなったのです。

ミヒャエル・エンデ著「モモ」より

テリークも同様に強くなった。それは、彼が彼のこと考えていたからではない。どうしようもなく弱い存在、他人の力を借りなければどうやっても生きられないアーティのことを考えていたからだ。つまり、アーティがもつ否定しようのない「弱さ」がテリークとアーティをつなげ、テリークを強くした。このことは、テリーク自身も漠然とではあっても感じていたはずだ。そして、それは2人の別れのシーンにもつながっていく。

会話になってない、でも深く通じる会話

2人の別れは、「Are you OK?(大丈夫?)」「You'll be OK(君は大丈夫だ)」という短いやりとりで終わる。でも、改めて考えると、これはきちんとした受け答えにはなっていない。そういう意味で、これは会話になっていない。

でも、思い出してほしい。アーティには、人の心の機微を感じる能力があった。彼は、出会ったときと比べものにならないほど強くなったテリークを感じたはずなのだ。

だからこそ、別れの言葉がある。

  • 出会ったときに感じた不安そうな様子ではなく、強さがみえる。

  • 自分のために、ここまで献身的になってくれた善良さがある。今も、私の身を案じてくれる。

  • その2つを持っていれば、君は社会と、他者とつながれる。やっていく力がある。

  • だから、君は大丈夫だ。

そのような意味を、あの短いフレーズに込めたのではないか。そして、それはアーティが表する最大限の敬意と謝意だったのだと思う。

テリーク最大の変化

そして、テリークに起こった最大の変化を解説したい。それには、もう1つちょっと特殊な考え方を紹介する必要がある。それは、北海道の浦賀にある統合失調症を始めとする困難を抱える人たちの施設「べてるの家」の「苦労を取り戻す」という考え方だ。

私なりに表現すると、こう:

人生というのは、苦労するものだ。逆に言えば、自分がどのような苦労を引き受けるか、ということが、自分の人生を選択していること、とも言える。統合失調症による幻覚や、身体の障碍は、第三者から見ると取り除くべきことのように思えるが、本人にとっては、生きる上で大前提となる特徴に他ならない。それを取り上げるのではなく、自分がやるべき苦労として受け入れる、つまり「苦労を取り戻す」ことで、ようやく自分の人生を取り戻すことができる。

アーティのことを思い出してほしい。彼の盲ろうは深刻で、基本的に他人の助けを借りなければ、外出もできない。でも、彼は人生を楽しんでいて、デートもできる。いわば、盲ろうによる「苦労」を自分の人生の一部として受け入れ、その上で幸せに生きることを追求しているのだ。

その姿は、テリークに明らかに変化をもたらしている。アーティに出会い、別れた後、現実の問題は何ら解決していない。テリークはホームレスで、金もないままだ。でも、ずっと状況はよくなっているという印象を受けるはずだ。

そして、テリークはアーティからちょろまかした釣り銭を、かつて無視したホームレスのカップの中に入れる。色々な解釈が出来るだろうけど、私は「ホームレスを自分の苦労として引き受けること」「自分の中の善良さで、それを解決すること」を、テリークが認識し始めたことの表れと読めた。

大きな逆転

これは、この映画の中でもっとも重要なポイントだと思う。2人の出会いによって大きく変わったのはテリークの方だ。そして、それはほとんどアーティのアクションによってなされている。

ここに、私は大きな逆転を見る。アーティがバス停まで連れていってくれる人を必要としていたのは事実だ。アーティは、助けがなければ生きていけない。でも、変化の度合いは、助けたはずのテリークの方が大きかった。つまり、アーティがテリークを必要としていた度合いよりもっと強く、テリークがアーティを必要としていたのだ。

この大きな逆転が、この映画のラストをより感動的なものにしている。それは、お互いがお互いを必要としているというシンプルなメッセージだ。必要とされることは、ときに、あるいはひょっとしたら常に、必要とすることと同義でもある。

よい映画は多面的である

よい映画は時代を映す。

若年ホームレスの問題だったり、福祉の中でも特殊な位置にある盲ろう者だったり。

あるいは、ジェンダーの問題だったり。テリークがアーティの「キスしていい?」という質問を読むときに、少し止まったのは象徴的だ。彼の周りには、あんな風に女性の主体性を重んじる人はいなかったのではないか?

あるいは、改善しない人種の問題だったり。ラストシーンのバスの中で、テリークを見つめる女性の顔はそれを意図していたようにも思える。テリークは、彼女の息子でもおかしくない年齢だ。彼女は、テリークのことを他人と思えなかったのではないか。

あるいは、人が忘れてしまった感覚であったり。これはコロナ禍の前に撮られた映画だけど、コロナによって失われてしまった人と人の「触れ合い」を映していることは間違いない。そしてそれは、ポストコロナの時代だからこそ輝いて見える。タイトルの「フィーリング・スルー(~を通じて感じる)」も、ストレートにそのことを表現しているのではないか。

そして、何よりよい映画は多面的だ。私が述べてきたことも、やっぱり一つの解釈に過ぎない。てんで的外れかもしれないし、もっと深い考察もできるかもしれない。

でも、一見シンプルな脚本・映像の中で、これだけの考察ができること自体、この映画の素晴らしさを物語っている。個人的には、オールタイムベストに入る傑作。ここまで読んでくださった方は、すでにこの映画を観たものと信じているけど、この映画をもっと好きになってもらえる一助になれば幸いです。


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