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2024年Q2期ベスト本【アート編】

恒例のベスト本紹介。昨年までは半年に1回の頻度だったけど、今年から3ヶ月に1回に増量してみました。これくらいがちょうどいいかな?今の時点で、もう10冊に絞るのに難儀しているので…

そしてもう1つ、いつもはサイエンス編が先なのですが、今回はアート(「artifact=人が作ったもの、人の営み」の意味)編を先に。これは、単純にコチラの方が豊作だった、ということで…


不倫と結婚

大物声優、一流料理人、プロスポーツ選手、政治家…叩かれるのは分かっているのに、人はなぜ不倫する?

本書の著者はベルギー出身のカウンセラーで、様々な国でカップルのカウンセリングを行ってきた。彼女によると「パートナーをないがしろにしたいからではなく、大切に思っているからこそ不倫する」のだという。

経済的な共同体、お互いのケア、家族の絆、社会的地位、etc。セックスや恋愛に不満があったとしても、その他が大切だから、セックスを求めてそれらを壊すのが怖いからこそ不倫する。

そして、不倫を乗り越え、逆にその関係を深めたカップルは、目先の正しさより性に対してオープンになることを選んだという。たとえば「インスタの写真が美味しそうだったから、この店の料理が食べたい」というのと同じ感覚で「街で見かけた若い子をみて抱かれたいと思っちゃったから、エッチしたい」と伝える。そんなことって想像できる?でも、著者の主張はまさにそういうことなのだ。

結婚の歴史や社会通念の変遷から、現代の貞操観念そのものに疑問を投げかけ、人の性の本質を浮き彫りにするスゴ本。結婚する人、した人、憧れる人、まったく興味のない人、すべてにオススメ。

「愛している」と「結婚しよう」――歴史の大部分において、この二つの言葉はけっしてつながってはいなかった。これを一変させたのがロマン主義だった。十八世紀から十九世紀初頭にかけて、産業革命のもたらした社会の大変化の只中で、結婚もまた定義し直され、少しずつ経済的な企てから友愛的なものへと――義務と責任ではなく、愛と情をベースとした二人の人間の自由に選択した約束へと――変わっていった。

エスターペレル著「不倫と結婚」より

なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術

「忖度」という言葉がこんなにも一般的になったのは、たぶん2017年に「安倍総理大臣は森友学園への国有地払い下げで、忖度があったと認めるべき」という、当時の大阪府松井知事の発言からなんじゃないかと思う。

以後、この言葉はずいぶん気軽に使われるようになった。そして、これは何も日本に限ったことじゃない。アメリカでは「黒人のデパート店員は白人のお客さまから嫌われる(だろう)」という忖度から、採用が控えられているという。でも、それって本当のこと?

本書は「他人がこう考えているだろう」という思い込み=集団的幻想をテーマにした本。簡単に言えば「裸の王様」。でも、裸の王様は思ったより遙かに手強い。それは「集団で浮いた存在になりたくない」という人の社会的な本能に根ざしているから。

それでも、立ち向かう手段はある。それも、とてもシンプルな手段が。質問する、沈黙ではなく保留する、判断できないと積極的に伝える、自分の心を偽らない。そう、裸の王様って、子ども、そして素直な大人に、すごく弱いのだ。

この種の集団的幻想により、いまの社会はどこかおかしいという不安感を誰もが抱くようになりつつある。(中略)自分がおかしいのか、世間の方がおかしいのか、その両方なのか?凝り固まった疑念は信頼を損なわせ、個人の幸福と国家の繁栄を揺るがしているにもかかわらず。

トッド・ローズ著『なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術』より

ふつうの相談

気がつけば、東畑開人先生と松本俊彦先生は、ベスト本の常連になってしまった。だってしょうがない、面白いんだから。

本書は、東畑先生の集大成とも言える傑作。「夢にみていた快刀乱麻を切るカウンセラーではなく、地味で地道なカウンセラー」を目指していた東畑先生が、雑談の延長である「ふつうの相談」にケアと精神医療の真髄を見つける…なんだか剣豪物語を見ているような気分になる。

この響きを本論では「ふつうの相談」と呼びたい。それは心理療法の教科書や専門書には書かれていないけれど、誰もが本当は実践している相談のことだ。日々の臨床に溢れているのに、名前を与えられることもなく、その価値を見過ごされてきた対人援助のことだ。

東畑開人著「ふつうの相談」より

安全に狂う方法――アディクションから摑みとったこと

依存症を「アディクション」とよび、「病気」としてではなく一つの現象・症状(咳みたいなもの。風邪は病気だけど、咳はその症状で、悪いものではない)として見る。すると、今まで見えなかった様々なものが見えてくる。

アディクションはコントロール不能のまま何かに囚われた状態である。
アディクションは生きづらさや困難から生じる二次症状である。
アディクションは主体性を発揮できない状態である。
アディクションは他力を使った乖離である。
などなど…。

もの凄い情報量と詩的な構成に面食らうかもしれない。でも、サイエンス的な厳密な読み方をするより、物語として全体と捉えることをしてみると、著者の主張が驚くほどすんなり入ってくる。細分化、分割ではなく、全体を見る。だって、相手にしているのは人間なんだから。

アディクションとは、対象とピタッとくっついてしまうことだ。恋愛関係のように。
だとしたら、最もよく起きて、最も気づきにくい、最も抜け出しにくいアディクションは「考え(思考)」ではないだろうか。
自分の考えは、まるで自分自身のように見えて離れられない。

赤坂真理著「安全に狂う方法――アディクションから摑みとったこと」より

YUKARI

最初に言っておくと、この本はホラーです。

主人公は歌舞伎町のキャバクラのホステス。彼女が、昔関係のあった教師、かつての常連客、現在のセフレ、現在の婚約者に手紙を綴る。でも、その内容は微妙に食い違っていて…というお話。

もう、背筋が凍る。下手に美しく、慎み深い文章だからこそ、うっすら…ではなく背後に潜む強力な悪意が際立つ。

「昔の人も、和歌に書いてあることを真に受けてたわけじゃないでしょう?もっと自分勝手な感情や思いを、美しい言葉で覆い隠していたはず。でも、そのラッピング行為こそが愛」という主人公の主張は、妙に説得力がある。そして、歌舞伎町というむき出しの欲望が渦巻く街にその美しい言葉をおくと…完全にホラーになるのだ。

でも先生、生霊よりも本物の人の方が余程危険ですよ。むしろ昔の人は、本物の人の所業を生霊に擦り付けるために物語を書いたんじゃなくて?

鈴木涼美著「YUKARI」より

精神医療はサイエンス?

今回は精神医療と心理学関係が中心。これって考えてみると「サイエンス」なのかも知れない。でも、僕はどうしても「サイエンス」と呼ぶのには抵抗がある。それはインチキという意味ではなくて、客観性や再現性を求めてしまうと、人の心の実情から遠ざかってしまうように感じるから。

もちろんサイエンスの対象になる部分はあるんだろうけど…その部分だけで、臨床ができるわけじゃない。人の心のサイエンスにならない部分に向き合う。これって「人と向き合う」ことにダイレクトに繋がるんじゃないかと思う。

サイエンス編に続く!

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