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【214球目】1月17日

このnoteが掲載されるのは1月18日ですが、これを書いている今日は1月17日です。

1995年1月17日午前5時46分。阪神淡路大震災のあった日です。

当時高校2年生だった私は神戸市垂水区の実家でそれを経験しました。今、44才になって仕事ができていることがとても奇跡的なことであり、私たちは自然の脅威にはどうあがいても勝てないことを学んだ経験です。

今日は当時のことを少し振り返りたいと思います。

1995年1月16日

前日の1月16日は月曜日でした。月曜日でしたが、当時は1月15日が成人の日でしたのでその振替休日で16日もお休みでした。

16日はとても体調が悪く、39度くらいの熱があったことを覚えています。そして、翌日に古典のテストの予定があり、あまり古典が得意でなかった私はとても憂鬱な気持ちで勉強しつつ、体調が悪いので早めに就寝したことをよく覚えています。

それまではこの世の中には阪神淡路大震災という言葉は当然ありませんでしたし、関西地方はどちらかというと地震が少ない地域という認識もありました。この地域は台風にしても、直撃がほとんどありません。雪も降ることが少ない、雪が積もると子供たちは大はしゃぎです。たまに台風が近づいてきて警報が出て学校が休みになると、喜んでいた小学校時代の記憶があります。

そんな場所でまさかの大地震です。

1995年1月17日

熱があり体調があった私は縦揺れの途中で目が覚めました。

ドーンという大きな音の後に、縦揺れがあり、その後長い時間の横揺れがありました。ベットで就寝中だったため、全く動けずにその時間を過ごしていました。揺れが収まったあとに、すぐに外に避難。

車のラジオは正常でしたが、まだその時は被害状況も分からず、とりあえずその場の状況を伝えているだけのものでした。今思うと何かを伝えないといけないという使命感だったのではないかと思います。そのラジオ実況や外の景色が昨日までの日常を全て吹き飛ばしたのだと、当時の感覚をよく覚えています。

その後、数日続いた余震や長い間ガス・水道といったライフラインが遮断された状態の中の生活も鮮明に記憶に残っています。

昨日まで高熱があった私ですが、その日のお昼ごろには熱があることすら忘れていて、気づけば平熱に戻っていました。電気だけはその日のお昼位に通電したと思います。27年前のことですが、鮮明に記憶に残っています。

学び

関西地方は自然災害が比較的少ない地域でした。

それまでも日本や世界を見渡すと数多くの自然災害があったにもかかわらず、全て他人事のように捉えていました。あの大震災を経験してからは、それがどの地域であろうが自分事のように捉えるようになりました。

あの2日位前に、高校の先生と一緒に車であの高速道路の下を通っています。今、日常が送れていることになかなか感謝することは難しいかもしれませんが、大きな災害があるとそれを痛感しますし、今、このコロナ禍においても同じことが言えるかもしれません。

自分がどんなに頑張っても、自然の脅威の前では無力です。その中で私たちができること。日常が送れているという幸せな状況の中で、言い訳をして自分の可能性を狭くしていることは本当にもったいないことです。

やりたくてもやれない、頑張りたくても頑張れない、そんな人がいる。大災害や戦争で命を落としてしまった人たちの無念をとは言いませんが、少なくとも、今自分が生きていることには感謝の気持ちを持ち続けていきたいと思います。

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27年前、阪神淡路大震災で亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。本日もありがとうございした。明日もよろしくお願いします。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!