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「ごめんなさい」が通じる関係性に安心できる。

久です。またもや、回想メモです。
ぼくは精神・発達障害のある方を対象とした就職支援の仕事をしていました。そこで感じたことの一つに「言葉の表現」の難しさを回想しています。
前にも似たような記事を書いていますが……。

その施設では、毎年10名の方が選考試験を受けて1年間の利用者となられるのですが、実はその当事者の皆さんの前で講義をすることがこわくて毎回緊張していました。
例えば「障害」という言葉に対しても、まさに十人十色で捉え方が違うので、もし取り返しのつかないダメージを与えてしまったらどうしよう……。という不安が常にありました。
なるべく「あなたを傷つけるつもりはない、でも傷つけてしまったら申し訳ない。嫌だと思ったら講義の後にでも教えてください」と言っていたと思います。さいわい、一度もクレームはありませんでした。(言わなかっただけかもしれませんが)それから、皆さんとは休憩時間や個別に話せるタイミングを利用して、その個人の言葉に対する印象みたいなものを探るようにしていました。決して敵ではないということも醸し出す努力はしていたと思います。とはいえ、過剰に演じないようにも気をつけていました。

つまり、実は超絶ビビりです。

そういったぼくなりのビビりな「構え」は今でも続いています。いろんな当事者の方々の意見をリアルやSNS等で見聞きしていると、こういえばあの人が苦しむ、ああいえば彼女が悲しむ、かもしれない……。と思い始めて、何も言えなくなってきて、自信を無くして、次は自分が苦しくなってくるのです。
実際、支援の仕事を始めた当初は「絶句」することが常でした。
だからやっぱり、相手のために何か重要なことを言ってさしあげようなんてことは思わずに、「不快だ」とか「悲しい」とか、(レベルもあるだろうけど)それに対してお互いに「ごめんなさい」「いいよ」「なにがどうだったからそうなったのか」って話して許し合える関係が築かれていることが、ぼくにとっては安心できる環境だったのでしょう。だから10人集合というのは本当にきつかった……。
またその関係は「支援者と被支援者」極論をいうと「主従の関係」ではなくて、対等な立場での対話によってしか築けないだろうと経験的に感じていたので、支援や就職には全く関係のない話を長々とやっていたのでしょうね。
もちろん、個人によってそれぞれ全然違うってことは大前提としてありますが。

以上、回想メモでした。


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