見出し画像

旅景、桜の木陰で泣き笑うふたり、写真雑感


和歌山と大阪の県境に山中渓という場所がある。あまり知られていないところだが、桜の名所だ。かくいう私もはじめて行くまで、桜のことはおろかその地名さえ知らなかった。

高校時代、春休み、青春18切符を買って国内を気ままに彷徨った。
休みが終わり、始業式の日、午前中だけの学校が終わってから電車に飛び乗ったのだった。
切符が一枚だけ残っていて、使用期限が差し迫っていた。
当時から老け顔だったから、学ランを鞄に詰めてコンビニで買った酒を飲みながら、適当に乗った電車の車窓をぼうっと眺めた。
旅には既に、飽きていた(そのことについては前に書いた)。


https://note.com/santei/n/n84eb5e4b2144 


ただ、買った切符を使い切らないと気持ち悪い貧乏根性だった。
飽きのおかげで、思春期の旅にありがちの「全てを経験したい、全てを見尽くしたい」という欲望もなくて、酔いに誘われるまま眠りに落ちた。

そしてふと目を覚ますと、車窓は桜に埋め尽くされていた。
一面の壮麗な花景色。反対側の窓を見ても桜が咲き乱れている。ちょっと寝た間に電車は天国を走っていたのかと、あまりの風景に不思議な笑いが込み上げながら、間もなく停車したので迷わず降り立った。 

画像1

(Googleから拾ってきた画像)

山中渓駅を走る線路には、両側に桜の木が並んでいる。それが電車からは桜のトンネルのように見えた。
古びた駅を出て辺りを散策してみると、至るところに桜が華めいている。私が無知なだけで知る人は知るらしく観光客も多い。駅からそばの、川に沿った小高い丘には、桜の木陰にレジャーシートを敷いて楽しんでいる人たちもたくさんいた。

そのなかに、一組の若い男女がいた。
男が、女のほうへデジカメを向けていた。それで、女はなぜか、泣きじゃくっているのだった。
そしてときどき照れるように手でカメラを遮ろうとする。照れるように、とほがらかな表現を使ったのは、彼女が泣きじゃくりながら、笑っているからだった。
二人は丘の高いところにいて、泣く声も、笑う声も、聞こえない。ただただ体を揺らし溢れる涙を拭いながら笑う横顔が見えるだけだった。
そして女を一目見て強烈な驚きに貫かれたせいですぐには気付かなかったが、男のほうに目をやると彼もまた泣きながら笑っているのだった。
笑いすぎて泣いている、というふうには見えなかった。
それにしては二人の面差しに、涙に、なにか切実なものがあった。
笑みは不自然で、なにか頑なに、どうにかして笑っているという感じがした。
あまり見るのも悪いと思って、私は我に帰るとすぐにその場を立ち去った。

桜をひとしきり見物して、帰ろうと駅に戻り、そこに町の簡略な地図があるのに気付いた。電車を待つ間見ていると、この地で有名なのは、桜と、子安地蔵で名高い寺ということだった。
子安地蔵、という言葉から私はすぐに二人の姿が浮かんだ。彼らは子を亡くしたのだろうか、と思ったのだ。
それは考えるとか想像するとかいうより、直感めいたものだった。
子安地蔵ということからまっすぐそういう考えが過った。
それは無論、咲き誇る桜の下で狂わしく泣き笑う二人に、ただならぬ悲愴さがあったからだ。
子安地蔵は本来は安産祈願の依代である。いまちょっと調べてみても、山中渓のその寺で水子供養をつとめているという情報は見つけられない。しかし子安地蔵が水子供養を祈る者にもまた求められるというのは、一個の事実である。
あるいは、二人は子を亡くして、そしてまた新たに身籠もり、この子は安らかに産みたいという祈りのために、桜咲き乱れる山中渓の地を踏んだのだろうかとも思われた。
答えはずっと出なかった。今も出ていない。
それは彼らに聞くことができないからとかではなく、自分のなかで恐らくこうだろうと勝手に決めてかかって放り投げることはできない、という意味である。
私が見たあの光景はそういう類のものだった。
決定的になにごとかでありながら、いやそうであるがゆえに、その全てを知り尽くしようがない、それは彼らに事情を聞いたとて知り尽くせないものなのだ。
二人の悲愴には決して動かざる気配、なにかが起こってしまったという峻厳な事実の手触りがあり、それはもう起きてしまい、すでに終わり、動かざるものだからこそ、全ては後の祭りであり、今ここの私の想像や解釈は、かたくはじき飛ばしてしまうのだった。

私は折に触れて彼らを思い出す。
男があの日撮っていた写真を見たいと思う。
写真という技術もまた、想像や解釈をはじき飛ばす何かだろう。
ロランバルトの言葉を借りれば、写真に映るものは「それはかつてあった」ものなのだから。
カメラマンでもない限り、他人に不意にカメラを向けたりはしない。我々が日常に撮る写真はほとんどが性格的には記念写真であり、記念写真とは不意打ちで撮られるものではない。それが記念するということだ。
しかしあの日、彼は不意にカメラを捉えたのではなかっただろうか。
二人とも知らず知らずのうちに泣いてしまった。その時、不意にカメラを手にしてシャッターボタンを押す。かつてあった悲しみが去来し、涙になって再び現れ流れた瞬間、それをかつてあったものに還したくて、写真を撮った。
かつてあったものへの喪。かつてあったなにかに対する、おそれと愛に引き裂かれながら。泣き、笑って。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?