熊本地震のときの、避難所運営を振り返る その4
私、三太は6年前の熊本地震(2016年4月14日前震、16日本震)の際、本震後の4月16日早朝より5月8日まで、家族とともに地域の小学校の避難所へと身を寄せていました。
その間、私から避難所運営の会合を呼びかけたことにより、いわゆる避難所運営委員会的な集まりの代表っぽい動きをすることとなりました。
余震も続き、めまぐるしく状況が変化する中、地域の一次避難所である小学校で、どのようなことが起きていたのか、比較的運営の中心にいた私がどのような思いで関わってきたのかを、こちらのnoteにまとめてみています。
前回までの記事は下記から辿れますので、興味あられる方は目を通されてみてください。
その1(本震発生から避難所へ 打合せの呼びかけ)
その2(16日打合せ内容、医療支援、深夜の停電)
その3(17日より ニーズの変化など)
今回、4回目の掲載となるこの記事では、避難所生活の中でのあれこれや、私自身が内心で思っていたことをまとめてみました。
これまでの記事との重複した部分もありますがご了承ください。
なにぶん混乱した中でのことであり、画像のタイムスタンプや断片的にスマホの中に残っていた記録などから記憶を辿っています。細かな時系列の誤りや主観的な見方にしかなっていない考察もあるかとは思いますが、精一杯まとめてみてますので興味あられる方はぜひどうぞ。
避難所生活の中で
環境整備
避難所利用者の多さ(4月16日夜で730名か)&閉鎖的になりがちな環境であったため、感染症には避難所開設時からとにかく気を使っていました。
画像にあるように、炊き出しでの手袋やマスクの着用はもちろん、
●食事時の手指消毒の徹底
●トイレ周辺の環境整備
●一日数回の2階の窓を開けての寒気
これらについて防災士の資格を持つ避難者の方を中心に整備を行い、後に医療支援に入ってくださった医療者の方々からも「ちゃんとされてます」との褒め言葉をいただくことができました。
画像はトイレの様子です。
トイレにはほぼ24時間体勢で、最初は中心スタッフが交代で、後半は避難者の中から協力者を募って、手指消毒と掃除を兼ねての当番を配置していました(下の画像でのトイレ当番はまだ元気だった私の母です)。
手袋、マスクをしているのが分かります。
医療的な支援が必要だった方々
これまでの記事でも書いていますが、最大人数700名を越えたと思われる避難所の利用者の中には様々な医療的支援が必要と思われる方がおられました。
記録のためにもまとめて書き記しておきたいと思います。
今から振り返ると自分の不勉強による不完全な対応や、医療機関へきちんと繋げられなかったことなどの反省も大いにありますが、当時はとにかくみんなして精一杯に頭を回していたようには思います。
内容・画像ともにこれまでの記事において既出のものもありますが、まとめた形での記述ということでご容赦ください。
●避難時に怪我をされた方
16日早朝(15日深夜)に起きた本震で避難所に集まった方の中に、避難される際に額に怪我をした方がおられました。
その時点で医療職の方が避難者の中におられなかったと思われ、私が傷の洗浄と圧迫止血の処置を行っています。
画像は小学校体育館の防災倉庫に避難所物品として用意してあった外傷キットです。
●ぜんそく発作への対応と環境整備
16日の午後だったかと思います。
ぜんそくの薬が持ち出せなかったとのことで、誰か持ち合わせないかとの依頼があり、ハンドマイクで利用者に尋ねてみましたが無かったため、保健室で湯を沸かし、湿度を上げることで対応。翌日、かかりつけ医で薬は出してもらうことが出来ました。
またこの方はその時点で個室等の静かな環境を用意することが出来ず、体育館での長期の生活は厳しいと親戚の方のところへの再避難となりました。
きちんとした対応が取れなかったことを、今でも反省しています。
●褥瘡発症されていた高齢者
避難所に来られた段階で腰に褥瘡が出来ていた高齢者がおられました。
本人に確認したところ知人もいる体育館にいたいとのこのでしたので、学校にお願いし、保健室のベッドのマットレスを体育館に持ち込みました。
16日中は私が体位交換の補助に入っていましたが、自力での寝返り可能だったため、周囲の人にも注意喚起をお願いして直接介入は終了。
避難所退所時には褥瘡が軽快しておられました。
話を聞くと、家にいたときは布団に寝てばかりで、テレビの場所との関係で同じ側をずっと下にしていたとのこと。「あっちゃん向いたりこっちゃん向いたりして寝てください」との話をしました。
●在宅酸素療法をされていた高齢者
避難した時点でボンベを持ってきておられましたが、本人とご家族から酸素が保つか不安だとの相談を受けました。
私の方で供給量から残り時間を計算し翌朝まで保つことを説明。翌日、消防団の方に車を出してもらい、損壊したご自宅からボンベを避難所へと搬入しました。
●糖尿病による下肢障害のある避難者
かなり高齢の方で糖尿で足の消毒や塗薬が必要な方がおられました。
学校のソファ二つを使ってのベッドを作り立ち上がりの負荷を軽減。
運営に加わってくださった看護師さんが毎日の洗浄や塗薬、血糖値や服薬の管理に取り組んでいただきました。
●停電時の転倒
17日の早朝(16日深夜)に起きた停電では、体育館内で多数の転倒が発生しました。
頭を打たれた方がおられたので、大事を取って医療機関への救急搬送を行いました。
●発熱された妊婦さん
ご家族で避難されていた方で、妊娠している方がおられました。
16日の夜間に熱発され体温計の貸し出しなどを行いましたが、大事をとって医療機関への搬送となりました。
●十二指腸潰瘍術後の方
私が仕事から避難所へと帰ったとき、運営に一緒に携わってきた方から「三太さん、金平糖が薬に立ったよ!」との興奮気味の報告がありました。
話を聞くと「十二指腸手術後、普段は通院してないが食事量が減っていた方が低血糖発作で意識レベル低下。金平糖で回復された」とのこと。
本人さんに確認すると術後は食事回数を増やして量を減らしていたとのことで、ストレスと3回しか食事提供出来ない避難所の状態からのものだったのかと思いました。
この方が医療支援前にピックアップ出来なかったのは、私の声かけが「病院に通われている方」という文言を使っていたせいでした。
後に医療者に質問し、次回からは「以前大きな病気や手術をした方、何か気になることがある方」との投げかけがよいのではとアドバイスをいただきました。
この出来事は、避難所運営の中で私が大きく反省したことの一つです。
●両手杖仕様の高齢者
下肢障害があり、両手杖仕様の高齢者。身体を横にすると大変とのことで椅子で休まれるとのことで転倒防止に横にも椅子を使ってもらいました。
この方は私の同級生の親御さんで、久しぶりの再会となりました。
利用者への情報公開・提供
体育館内のホワイトボードにそのときどきの情報を提示していきました。
炊き出し会場となった調理室の黒板に初日から二日間、メニューと数を書き出したところ、その後ずっと数の把握のために記入していってます。
体育館の照明の工夫
避難所である体育館の夜の照明については、最初の数日は全点灯→4分割による日にち毎に点灯と無点灯→ステージ照明をつけ、緞帳を半分閉めることで光量調整、という形でコントロールしていきました。
天井照明は6時点灯、22時消灯へとしていたと思います。
17日早朝の停電発生の際に、暗闇だと転倒が多発するということがみなの共通認識となり、全消灯は行いませんでした。
生理用品などの取扱い
生理用品については本部近くに誰でも持っていけるようにも置いていましたが、女性用トイレの中にも設置しました。
同時に口腔洗口液も置いています(男性用トイレにも)。
運営の中心スタッフのストレス解消
私自身、避難4日目と9日目に普通の会話をしているときに突然涙がボロボロ流れ出す感情失禁を経験しました。
「5分に一度、何かが起きるよね」という感じの避難所生活の中で、「非日常が日常化する」ことのストレスが大きかったのだと思います。
中心でがんばってもらっていたある方が、深夜調理室で涙されているというご家族からの話があり、少し時間をとってなんでもない話をしたことも。
画像1枚目は調理室での神戸市職員さんと中心メンバーとの談笑模様。これ、0時近い時間帯です。画像の中には米(未精米)の支援物資があるのも分かります。
2枚目は別日のやはり深夜に神戸市職員さんと差し入れのスイカを。加工していますが、満面の笑みで食べてもらってます。
避難所開設三日目の4月18日から支援に入っていただいた神戸市職員さん達からは、精神的にも物理的にも運営を支えていただき、本当にありがたく思っています。
当初「阪神淡路大震災の経験から蓄積してきた避難所運営のノウハウをお伝えしようと思って来ましたが、ここはとてもスムーズに運営されておられますので、自分達は肉体労働に徹します」と仰っていただいてました。
その後、おそらくは「運営中心メンバーのストレスを解消すること」へと自らの役割を位置づけ直していただいたのではと思っています。
関西の方特有の「笑い」と「気遣い」に、地元のメンバー一同、本当にすごく癒やされた気がしています。
自治体職員、学校職員との関係
上記の神戸市職員さんもそうですが、私がいた避難所で実際にその場にいた人達は次のような方々です。
●避難者
●学校関係者(複数、夜もどなたかいてくださいました)
●熊本市、途中から県職員(常時1名、24時間昼交代)
●神戸市職員(常時4名→2名へと、24時間夜交代)
その1の記事で書いたように、私がその時点で動いている方々に声をかけさせていただいて16日の午後に「打合せ会合」を初めて開催したときから、自分の中で一番に考えていたのが
「避難所利用者と行政・学校職員を絶対に対立構造の中におかない」
ということでした。
これは私が過去の報道などで、災害避難所で避難者と行政職が対立していたり、各場面での説明会などで怒号渦巻いたりという状況を見てきていて、何かおかしい、と思っていたことをいかに反映させるかとの取り組みでもありました。
具体的には
「避難者・行政職・学校職員、その全員が『避難所を構成するメンバー』という立場であると認識し、互いに公平な発言保障をしていく」
「打合せで出た疑問や問題点を、行政職や学校職員に『答え』を求めるのでは無く、みなで考えていく」
「そのため、打合せ内では避難者も行政職、学校職員も『それぞれの分野からの報告』という形でフラットに扱っていく」
などという点を気にしながら運営を進めていきました。
この私が内心で思っていた方針は、私が仕事でいないときの打合せを含め、最後まで貫けたと思っています。
このことについては避難生活の途中で近隣の同じような避難所の内情もぽつぽつと伝わってきたのですが、行政職と避難者の間にかなりの対立が見られてところもあったようで、コーディネートをどうしていくかはとても難しい問題のようです。
その他、避難所や周辺での色々なこと
画像が残っていた色々なことと、簡単な解説を。
当初(私がいた避難所では19日から本格的に入り始めました)いわゆるプッシュ型(支援物資をとにかくあるものを届けてもらう)で来ていた支援物資が、避難生活10日目前後から自衛隊によるプル型(必要なものを持ってきてもらう)へと変化しました。
これはスペースに限りある避難所においても、とてもありがたいものでした。
担当される自衛隊のスタッフもおそらくルートでほぼ固定されていて、毎回の依頼もスムーズでした。
応援自治体職員さんは「現地避難所に負担や迷惑をかけない」ことをモットーとされていて、食事も持ち込んだ分で済まそうとされていました。
これは賛否あるかと思いますが、私がいた避難所では「同じ釜の飯を喰いましょう」という考えで、炊き出しを一緒に食べてもらうよう(強引に)お願いし、持って来られた食品は後に入り始めたボランティアさんなどに配るようにしました。
避難所生活も少し落ち着いてきたころ、ボランティアセンターからの登録ボランティアの方が来てくれるという通知が来ました。
被災した方の家の片付けなどをお願いしたかったのですが、このボランティアさんは被災家屋の危険なところ(不適切ですが、『赤紙』と言ってました)には派遣することが出来ず、どうしようかとみなで思案。
姑息な手段ではありましたが「家屋ではなく避難所への派遣」という形にして、了解が得られたボランティアの方に家屋へ行ってもらい、家の中はご家族や消防団員、外をボランティアさんにお願いする、などの形を取りました。
私がまとめていたものです。
血圧計とパルスオキシメーターは避難者からの申し出でお借りしていたもの。
金平糖は前述の十二指腸手術後の方の低血糖症状発症時に威力を発揮しました。
五月の連休に体育館に来てくれたトンボ。
思いっきり熊本弁です(笑)。
意味は分かられますでしょうか?
私が寝ていた毛布。
下に段ボールを何層かに敷いてました。
「負けんばい」は「負けないよ」「負けないぞ」と、自分に言い聞かせるような意味合いの熊本弁です。
みんな、互いに励まし合いながら日々を過ごしていました。
私自身もそうだったと思います。
当時、よくLINEのタイムラインに書いていた私の言葉は
「がんばろう。がんばらなくていい日が来るように」
でした。
今回はここまで。
予告していた避難所の終結に向けて、の部分は、もう少し文章練りたくなってきたので、数日後に公開しようと思います。
6年前のこととはいえ、やはり色んな思いが溢れてきますね。
2022年4月16日 熊本地震本震から丸6年の日に