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熊本地震から4年、避難所運営を振り返る その1


今日で丸4年が経つ熊本地震。
これまでLINEのタイムラインや自サイトの中、またこのnoteでも少しずつ書いてきてはいたんですが、自分が運営に携わった避難所について、まとめておきたいと思っています。
まずは前震から本震発生、避難所への移動入所と、そこから13時間ほどの経過の中で、避難所の運営委員会的な場を立ち上げるまでを書いてみます。

文章中、私自身の思い、思い込み、勘違い、記憶違いなど色々ごっちゃになっていると思ってます。
あくまで「避難所に関わった1人の思い」が前提の文章と思って読んでいただけると嬉しいです。


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熊本地震から4年、避難所運営を振り返る その1


前震

2016年4月14日木曜日、21時26分。
後に前震と呼ばれることになる大きな地震が熊本や大分方面を襲ったとき、私は職場である高齢者施設から帰りのバスに乗り込もうと、タラップに足をかけたところでした。
転倒しようとする程の大きな揺れに最初に考えたのは「まだ乗ろうとしてるお客がいるのにバス発車したのか?!」ということでした。
あわてて車内のバーなどに掴まりながらも椅子に座ると、どうもバスは動いてないのに大きく揺れている。
地震?とは思ったものの、そのとき車内にいた10名近くの乗客は自分も含め、声も上げずに座席にしがみついているだけでした。
おさまった!かなと思っても、車内は凍り付いたように静かなまま。
バスの運転手さんから「ただいま大きな地震がありました。ご家族や職場など安否確認をされてください」とアナウンスしてくれ、皆一斉に携帯、スマホでの連絡を取ることに。
非常時のマニュアルにあったのかもしれませんが、このとき通常は禁止されているはずの電話行動の促しをしてもらった運転手さんには感謝しています。

私も家、職場にかけるもまったく繋がらない状態。
職場に戻ろうか、との思案もしたんですが、70代後半の母の心配もあり、そのまま帰宅することに。
後から聞くとタイヤの付いた車両内にいると体感震度は2近く軽減されるとのことで、建物が倒れるほどでは無い感覚だったのだと思います。

当時の私は家から職場までバスを乗り継いでの通勤をしており、まずはバスセンターまで通常で20分ぐらいの移動です。
車窓からの雰囲気では大きな停電は起こっていなさそうでしたが、到着したバスセンターでは多くの人がスマホを耳に当てていても、通じていない様子。
とりあえず乗り換えのバスに乗って家に向かうもそこでも停電は見られず、とにかく母や姉、職場に連絡がつかないことだけが気がかりでした。

乗り換えたバス内でやっと姉からSNSでのメッセージがあり、自分も今帰っているとのこと。姉は自家用車移動でしたのでそちらが先に着くかと思うけど怪我に気をつけて、と送り返しました。
職場にも通常回線での電話は相変わらずダメでしたが、LINE電話がこの時点で通じ、利用者さんも落ち着いてるので大丈夫、との返事。
最寄りのバス停から家までの間も余震が続き、転びそうになるのを何とかこらえてやっと家に。

姉が先に帰ってきていて、母親も何度も電話したけど繋がらなくて心配してた、とのこと。幸い3人とも怪我もなく、家の中は水屋の中がぐちゃぐちゃだったり本棚からの本の落下、かざっていた焼き物がいくつか落ちて割れましたが、まあ、片付ければ大丈夫かなという感じだったと思います。
停電や断水も無く、台所の細い水屋が斜めに倒れていたぐらいで生活そのものの継続はOKのイメージ。
余震があまり間をおかずに続くため、高さのある家具の無い座敷で靴を用意し、その晩は3人一緒に寝ることにしました。
余震の繰り返しであまり眠れはしなかったんですが、それまでの地震のイメージで最初の大揺れ以降は余震あってもだんだん小さくなっていくだろうとの見通しでした。

翌日、朝から家の片付けをしていると、昼直前から急に余震の回数が減ってきたことに気がつきます。
やれやれ収まってきたか、というのと片付け疲れもあって、夕方前に自分はのん気に髪を切りにすら行っていました。
午前中には動いていなかったバスも午後になって動き始めていたんだと思います。

実は週末に、県外の方と人吉で合流して温泉旅を計画していて、電話連絡は相変わらずつきませんでしたが、メールのやり取りで、「こちらは家の中大変だけど片付けすればなんとか、お会いできるのを楽しみにしてます(^^)/」のようなメッセージを送っています。
この時点では震源に近いところの被害は大きかったんですが、日常ががらりと変わる雰囲気まではいっていませんでした。

そして、余震も少なくなってきていたため、各々が自分の部屋で休むことにしたその深夜、再び大きな揺れが熊本を襲いました。


本震発生

2016年4月16日午前1時25分、本震発生。
とにかく経験したことの無い揺れに周りに掴まりながら階下に降り、母と姉にこれは家では無理だ、学校に避難しようと話をしました。
最初の揺れは体感的には2分ぐらい揺れていた気がしていましたが、後からの報道では20秒ほどだったとのこと。
それでも余震の頻度と大きさは家で過ごすのはためらわれるほどのもので、母と姉には生理用品とパッド着替えの準備、自分は着替えと亡くなった父が使っていたリハビリパンツと尿取りパッド、毛布2枚を車に投げ込みました。
道向こうに1人住まいの高齢者がおられたので、とにかくガンガン玄関を叩いて一緒に避難しようと声をかけます。
その間に町内の元民生委員さんが、やはりその方を心配して走ってこられたので「○○さんはうちの車で●●小学校に連れて行きます! 他の方をお願いします!」と打合せ、車に我が家3人との計4人で車に乗り込みました。

目的地の小学校までは1.5キロ無いくらい、普段なら車で5分程で着く距離です。
ところがこのときは道がボロボロになっていて、徐行しないと車が簡単にバウンドするような状態でした。
停電はところどころ、信号機はあっちこっちを向いたりで役に立っていませんでした。

おそらく2時前後に体育館に着いたと思います。このとき既に数十人の方が避難して来ていました。
トイレが近い母のことを考えて入り口近くが良いかなとも思いましたが、同じことを考える人が多く埋まってしまっていたんだと思います。家族3人と、○○さん4人で体育館の一番奥、ステージ向かって右横の場所にスペースを確保しました。

ここから私自身も携わることになった、避難所での数週間が始まります。


避難所で動き回る

とにかく深夜遅くではあるのですが、余震の強さと多さにみんな寝るどころでは無い状態だったと思います。
それでも母と○○さんには横になってもらい、自分も一息落ち着いて周りを見回すと、とにかく高齢者が多い。
利用者の細かな把握は後に書く理由でやらなかったため正確な数は分かりませんでしたが、感覚的には4割ほどが高齢者だった感じがしています。
この時点で自分のスペース周囲の方には声かけをしていたんですが、おそらく3時前だったと思います、姉にあることを伝えました。

「全体としたらかなり高齢者やお世話を必要としそうな人が多い。自分はその方達の世話に回るのでお母さんと○○さんの個別の面倒はお姉ちゃん、見てもらってもいい?」と。

姉も私の性格を知っているもので、賛成してくれ、本格的に動き出しました。

その時点でなんとなく「みんなの世話をされているなあ」と私が感じた方は、小学校近くに済まれていたこちらも元民生委員の方とそのご家族の防災士の娘さんや、同じく近くにお住まいで社会スポーツの体育館利用をされていた御夫婦など。
私は体育館と炊き出し場所のメインとしていた調理室との間を動き回っていてこの時点では気付いていませんでしたが、実際にはこの時間帯でも既に地域の消防団の方々が校庭の駐車誘導と車中泊避難者への声かけも行ってくれていました。
その動いていると思えた方達に「今は介護職をしていて、以前の仕事の関係でMSW(メディカルソーシャルワーカー)協会の教育部にいたので、専門職では無いですが公衆衛生についての知識が少しあります」と自己紹介。
私以外は皆さん長年の地域での知り合いの方々でしたが、私の入り込みを受け止めていただき、互いに頑張ろうとなりました。

電気は大丈夫。水道はどうも上水直結はダメだが、タンク貯留分はまだ出ている感じ。ガスは家庭科調理室で幸いプロパンが各テーブル毎にあるので、地震用のリレーストッパーを解除すればOK。などなどを確認します。
防災士&消防団員でもある女性がトイレ関係の衛生面の整え、流すための水のプールからの汲み出し等を指揮してくれて、そちらは任せることに。
災害用の備蓄倉庫が体育館内の小部屋にあったので救急キットや非常食、懐中電灯などを引っ張り出します。
非常食は100食ほどのアルファ化米しかなく、その時点でももう人数的に足りない状況でした。

体育館のステージ前中央付近に物質やテーブルでなんとなくの場所を確保しながら、私はとにかく毛布ごとに声をかけようと体育館を動き回ります。
声かけの内容は自己紹介と何かあったら声かけてくださいのアピール。「~町から家族と一緒に避難してきた介護職をしている~と言います。何か困ってることや心配なこと、痛いことや具合悪いとかはありませんか。リハビリパンツやパット、生理用品もありますので、私に言いにくかったら他の女の人でもいいので声かけてください」みたいな感じだったと思います。

時間が進み、どんどん避難所の中に人は増えていきます。その中で、怪我をしている人がいるとの情報が入ってきました。
高齢の男性の方で奥さんとの2人暮らし。家から避難してくるとき、どこでか分からないが気がついたら血が出ていた、とのこと。顔が血だらけで、よく見るとおでこの向かって左の方からの出血が見られました。
頭を打った覚えは無いとのことでしたが、とりあえずは両目の左右上下の追視と両手両足の指の動き見ての大きな神経上の問題は無さそうな感じ。
傷口を洗おうと思いはしたものの、使える水も万が一の途中のパイプの傷付きや汚染が心配で断念。傷口周辺見ても瘤は無さそう。
とにかく大量の消毒液とガーゼで血を拭き取り「医療者では無いので直接傷には触れません。強く押しての止血とガーゼを当てます。出血止まらないなら朝から病院探してみましょう」と、圧迫止血とガーゼ保護でその場は対処しました。

明け方前に校長先生がご自宅も大変な中来てくださって、なんでも言ってくださいとのこと。
既に自発的に色々動いていた何人かの人と一緒に話しながら「調理室の備品、ガスも含めた完全な使用、事務用品の使用、保健室の家捜し(←ホントにこう言いました)と物品の使用許可、避難者が増えた際の一般教室の利用」等をお願いしたと思います。
「なんでも使ってもらっていいです!」との言葉にすごく力をもらったのを覚えてます。

その際、校長先生から職員室内の機器に警報が出ているので見てもらえませんか?との依頼がありました。

実は校長先生とその後に来られた教頭先生はお二人ともこの4月に来られたばかりで、着任2週間後の震災でした。
前職がビジネスホテルで高層建築物のいくつかの設備ならなんとなく分かるかもと見させていただくと、上水ポンプのエラーと貯水槽の減水エラーが出ていました。
校長先生には「原因は2つ考えられます。地震で市水を屋上タンクに汲み上げる上水ポンプが物理的に壊れた可能性と、もう一つは屋上タンクの中味が減ってきていて上水ポンプが作動しているにも関わらず、市水そのものが断水しているために汲み上げる水が無いため、エラーが返ってきている。このどちらかだとは思います。いずれにしても連絡が付き次第、出入りの業者さんに依頼して点検してもらったがいいと思います」とお話しさせていただいたように思います。

どちらにしろ物資支援が来ないうちはタンク内の水と地下水で乗り切らないといけないため、煮沸するためのコンロは二口を常に利用し、こちらも張り付きで作業をこなしていきました。
確かタンク内の上水は、初日の午後には止まってしまったかと思います。

家捜し(笑)OKいただいた保健室からは消毒液や半分壊れた水銀血圧計、カセットコンロなど。
事務用品ではマジックや紙類、セロテープ、ホワイトボードなど。
ほとんどのものを学校から借りながら体制を整えて行きました。

この時点で上水断水やかなりの人数の炊き出しになることが分かってきていましたので、動けている人達との会話の中で、校区内に地下水利用をされている企業さんに分けてもらえないか頼むこと、そのための水運搬用のポリタンクを同じく近くの酒造会社に頼むこと、食品運搬用に大型のトレイを料理屋さんに頼むことなどが話しに出て、次々に手配の動きが始まりました。
その後地下水については消防団を中心に適宜汲みに行ってもらい、全量を一度煮沸してから、調理や飲料水として使いました。上水が復活するまではトイレの流し水はプールの水を人海戦術で汲んで対応していきました。

初日時点から既に、トイレには清潔徹底と掃除、流し水搬入のために24時間必ず誰かが張り付き、スリッパの履き替えや手指消毒の徹底、不潔にならないような清掃消毒を行う。身体的に通常のトイレでは利用困難な方には、私自身が多目的トイレ内での排泄介助にと入っていきました。
このトイレや飲料水等の体制作りには先に書いた防災士さん中心にとても丁寧に取り組んでもらい、後に入り始めた医療支援の各グループからも「ここまでしてもらってれば完璧です。お手本になります」と誉めていただいたのがとても嬉しかったのを覚えています。

この間、時間ごとに人が増えて行く中で、実質的な救援物資はゼロの段階。
何度も区役所に電話しても初めは通じず、朝方に電話回復したものの「区役所の営業時間は午前8時半からになっております」のテープ。
とにかくこれは非難してきた自分達だけでなんとかしないと行けないことが分かってきます。
朝方6時には自分のLINEのタイムラインに不足物資や状況を簡単に書いたものを画像に取ってアップ。

八代圏域の友人がこれを見てくれて熊本県に電話してくれるも、熊本市区の部分の動きまでは波及せずの状態でした。

8時半を過ぎ、ようやく管轄の熊本市南区役所に電話が通じました。
どうやら徹夜で職員さんは来られていたんですが、熊本県や役所内外との電話が多く、外線の切替が出来ていなかったようでした。
とにかく既に300人近くの避難者がいて、水も毛布も、食料も何もかも無いことを伝えました。
すると電話の先でも驚いたように「そちらの小学校、利用0人になってます!」と悲鳴のような答えが。
前震の際の避難所開設と閉鎖の報告がきちんとされていた&とにかく混乱した区役所内で0にしろ数値が入っていたため、その後のフォローが出来なかったことが原因だったことが分かりました。
こちらからはとにかく連絡確立のための要員と少しでもいいので食料や毛布をとお願いしましたが、届けられる物資は全くない、人員はとにかく昼までには送りますとの返事。
仕方が無いことですし後で述べることになる私自身の思いもあって「互いに頑張りましょう。お互い倒れないように」とエールを送りあって電話を切りました。

朝食炊き出しはとにかく目視で避難者の数を読みながら、追加追加でなんとかおにぎり260個を握りました。
このときの炊き出し部隊との意思統一は「並び損を生み出さないよう、どんなに小さくなってもいいから皆に配れるような数を用意しよう」と。
「完全な平等には出来ないけど、平等感は作っていこう」とも話した気がしてます。

なんやかんやで朝飯を終え、昼食の準備をしていく中でも、どんどん避難所への流入が増えていく。
そんな中で、避難者の中で自主的に動いている人で運営を回している今の状態だけでは、人数が500を越すあたりから対応出来なくなってくるのでは、との思いが頭の中をよぎるようになりました。


打ち合わせの開催にむけて

記憶が薄れてきていることもあり、初日だったか二日目だったかも曖昧ですが、災害用倉庫内にあったハンドマイクを使って、エコノミークラス症候群予防の体操も午前中に行い始めました。
これについては最初は座ったままでも出来るものをやっていたのを、避難所利用にも慣れた後半には立ってでも出来るものへと内容を変化させていきました。
私が仕事でいないときには県市からの派遣職員に小学校にあったラジオ体操の曲を流してもらいました。

初日の午前中、自分も一息ついた時には、もうだいたいの役割分担は自主的に動いている人達の中でなんとなく出来上がってきていた感じがしていました。

●炊き出し→元民生委員さんや社会スポーツ関係者や有志
●駐車場整理→消防団中心
●地下水汲み上げ→消防団中心
●トイレ衛生管理とプール水汲み上げ→防災士さん中心
●この時点では持ち寄り物品の管理→防災士さん
●学校関連の物品調整→先生方
●体育館内の避難者の介護部分対応→私

そんな中で、これもなんとなくですが、各々の現場で何かと決めごとをしようとするときや、どうしようかなと悩むときに「三太さん(もちろん仮名です)、ちょっとちょっと!」と声をかけてもらえるようになったことは実感していました。
そして、自分の中では明け方あたりから考えてきた全体の顔合わせを行って互いに進捗を報告・情報の共有をすることで、避難者数の増大に対応できる柔軟性と強固さを持ちうるのでは、との推測をしていきます。
その時点では、地域別消防団の団長さんを頭に据え、私が小間使い的な感じで全体調整に入ろうかな、ぐらいの考えでした。

ところが昼に近づくにつれ、少し自分の考えの方向性を変えなきゃなと思い始める声が聞こえ始めました。

朝の炊き出しには近くの避難者に持ち寄ってもらった米や、小学校地域の町内備蓄の米、持ち寄り味噌などを使いました。
また暗いうちから駐車場整理や地下水汲み、物品の搬入などでは消防団が頑張ってくれていました。

その中で聞こえてきた小さな声。
「○町内の備蓄してあった米は全体で食べていいの? 本当は○町内の人の分じゃ無いの?」
「○○がこっちで動いてるけど、元々地域の避難訓練での決まりだと、何かあったときはあっちの中学校での担当では無かったのか」などなど。

実際には大きなうねりになる前の、ほんの少しの取り違えや、直接的尋ねると霧散してしまうほどのものだったとは思います。
ただ自分の中の「婦人会や消防団など、既存の組織でライン化してしまうと、そこからはこぼれおちてしまう声が拾えなくなるのでは」と思うようになりました。

おそらく16日の午前11時頃だったと思います。
意を決して、これまで各々で動かれている方に声をかけることにしました。

「みんなそれぞれの場所で頑張ってるので、一度集まってそれぞれの状況を確認してはどうでしょうか」と。
確か午後3時か3時半に、体育館内で突然話し合いが始まると避難者に不安が広がるかと思い、体育館外の渡り廊下のところで初の顔合わせを計画しました。
幸いに誰からも反対や懐疑的な反応も出ず、「集まったがいいとは思ってた」との声もあったと記憶しています。

タイミングよく、区役所からの職員さんが避難所に到着されました。
ただ、その職員さんもまったく何をしていいか、すべきかの指示もなく、南区の方でも無かったようで、持たされていたのは紙を破った小さな切れ端に書いてある区役所の番号だけ。
「とにかくこれだけを渡されました。何かあったら電話してと言われただけで、何も分かりません」

本人さんも突き上げがあるのではないか、質問責めにあうのではないかと不安になっておられたのではと思います。
「私が見ている限りでは、ここは割とうまく回ってると思います。区役所との連絡はお願いすることになると思いますが、一緒に頑張りましょう」
としか言えませんでした。

昼の食事の片付けも一段落し、夕食の準備にはもう少しゆとりがある、そんな時間を選んだと思います。

この時点で自分としては
●現在の状況を互いに確認しあう場
●意思統一はこの時点では無理に取らない
●行政職員と避難者の対立構造を作らない
●組織代表の集まりにしない
ぐらいが頭にあったと思います。

このように考えた理由としては、阪神大震災や東北地震で、行政職員を糾弾したり運営方針の対立で怒声が飛び交った一部の避難所の報道を見ていた部分は大きかったと思います。
自分自身がその場にいたら、そのことそのもので「嫌な気持ち」を持ってしまい、閉鎖された空間である避難所生活の中では、それがとてつもないストレスになるのでは、と考えていたためです。

普段の生活の中で考え方の違いや行政に対しての意見を上げることの大切さは、障害者・高齢者への権利保障の運動に携わってきている身としては、充分に理解しているつもりでした。
それでも災害発生時に、避難所という閉鎖された特殊な空間内での人々の対立は避けたが良いのでは、という考えが根底にはありました。

晴れた日差しが心地よく感じて、余震さえなければ運動場で寝っ転がると気持ちいいだろうな、そんな午後だったと思います。

呼びかけに集まっていただいたのは、炊き出しの中心となってくれて、地域住民のほとんどを分かっておられる元民生委員さん、防災士さん、炊き出しで頑張ってもらってる方々、地域スポーツで学校との関わりも深いご家族、消防団の方々、学校の先生方、そして私の15、6名だったのではないかと思います。

この中では私だけが皆さんの顔と名前が一致しない立場だったと思います。
その他の方々はほとんど互いに見知っているか、地域内での繋がりがある方達でした。

確か、私から集まっていただいたのは現状の共有をしたかったこと、市から職員さんが来てくれたことを共有したかったことなどを説明し、会合を始めました。


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今回はここまで。
明日以降、続きを書いていこうと思っています。